2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.12.17

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2024.12.17

街灯が街を照らし、まだ人々が夢から覚めるずいぶん前の真っ暗な中、聖子ちゃんはブリュッセルに向かった。「気をつけて」とだけ声をかけて、ぼくのコートを羽織っている彼女の姿を見届けて再びベッドに戻った。まだ薄暗い7時半に起きて、ゆっくり準備をしてステラの散歩に行き、コーヒーを淹れて、グラノーラを食べて、9時過ぎから仕事を始めた。窓の外には、まだ十分な光が届いていないような青い風景が見えた。7時台に起きることがぼくにはずいぶん珍しくなってしまった。
前作『To Find The Right Chair』以降撮り溜めているものと新しく始めたプリントとを組み合わせて取り組んでいるプロジェクトを来年形にしたいと思っている。夏以降じっくりと自分の制作について没頭できる時間が取れていなかったので、仕事はしないといけないものの、Cario Apartmentの書籍が刊行できたこと、それから少しではあるものの広がっていることを実感して、少し頭に余裕が生まれてきたように思う。やりたいことも、課題も早急に解決するべき問題も割とたくさんある。しかし、地道にも制作を続けることが大切だ。
ぼくは社会問題や政治的な側面を作品制作にできるだけ持ち込まないということを意識的に行なっているつもりだ。それには、いくつかの理由があり、人間が生きている上で社会問題や政治的な側面は否応なしにも自分の言動や作るものに入り込んでしまうということが一つと、もう一つにその問題を取り上げることは、社会で問題が起きることを迎合しているのではないかとも思ってしまう。ある問題に対して、作品を通じてレスポンスをする。例えば、直接的に環境問題に対して警告を鳴らすような作品を作る。それは人間の正義として、人間が生きる上での責任として、の正しさを含むと同時に、一人の作家としては、環境問題がない世界では作家として存在できない=作家として環境問題を常に求めている求めてしまっている、という危険を孕んでいるのではないか。ゴシップ誌のように問題が起きないことには雑誌が成り立たないという構図に近い。人間が生きていく上で必ずゴシップは存在するし、問題も存在するという大前提の上にそれらが成り立つのであれば、問題ないが、本当にそれが人々が求めている世界の有り様だろうか。
作家としては、正しい反応は「無視すること」であるとも言えるのではないだろうか。ゴシップなんてゴシップ誌がなくても世の中から無くならない、と考えるのではなく、ゴシップ誌がなくなれば世の中からゴシップもなくなると考える方が未来への視野を持っているように感じられる。ゴシップ誌の読者はゴシップを容認し、気づけば自分自身もそのうちの一人になっているという構図。テレビ番組『ワイドナショー』でコメントをしていたダウンタウンの松本人志さんが、今は取り上げられる側にいる。取り上げる人も取り上げられる人も実のところ手を取り合ったように同じ場所に立っているという構図はずっとそこにあるのだ。で、あれば社会問題を取り上げる作家は、社会問題と手を取り合って同じ場所に立っているのではないだろうか。社会問題を本当に否定したいのであれば、作品上ではそれらを完全に「無視」し、違うテーマ(場所)で活動するべきではないだろうか。
もし、そこに問題がなければ制作しないのであれば、それは心の底から生まれる制作の喜びを無視した心との対話なしの制作は、ぼくは自分自身を作家として捉えた時にはそれは作家の活動ではない気がするのである。社会活動は、作品を通じてでなくても出来るし、具体的なメッセージがその作品に含まれていなくても、作家である以前に全ての作家は人間であるということを踏まえると、作家ではなくとも社会に対する活動ができる。日々の生活の全てが自分の社会に対する意思表明だ。
そんな風に思いながら、作品を作ろうとしているが、時に実は、「ただ問題を取り上げるだけの度胸や勇敢さを持ち合わせていないだけではないのか」とも自問することもある。
大江健三郎も社会問題と個人的な問題を取り上げながら作品を描いてきた。多くの歴史に残る作品はそんな風に存在しているのは事実だ。そして、村上春樹がノーベル賞を受賞できない理由に大きく言われるのは、社会問題に向き合う態度を問われているという記事も読んだことがある。
そこでだ、話を少し角度を変えてみよう。
大前提として、ぼくは、主に自分の個人的な葛藤や日常での悩み、問いかけなどをテーマに作品を制作している、制作しようとしている。
ぼくが、「ただ社会問題にを取り上げるだけの度胸や勇敢さを持ち合わせていない、自分の個人的な葛藤や日常での悩み、問いかけをテーマにしている臆病者の陰気な辛気臭い売れてない作家」
ではなく、
「社会問題にを取り上げるだけの度胸や勇敢さを持ち合わせいるのだが上にあげたような理由から、自分の個人的な葛藤や日常での悩み、問いかけをテーマにしている作家」
だとしよう。
もし仮に自分が「作品を通じては問題を取り上げない」という意識で制作を続けるのであれば、上にあげたような理由でそれらのテーマを直接的に作品に持ち込まないのであれば、
「自分の個人的な葛藤、日常での悩み、問いかけ」をテーマに制作することさえも、それらを迎合しているということである。それゆえに、ぼくが、「自分の個人的な葛藤、日常での悩み、問いかけ」をテーマにするのであれば、ぼくが自分の欲望のうちに作品を作り続けたいと思うのであれば、一生それらを抱えたまま生き続けるしかないのである。それは、辛いと思った。作品を作ることで個人として、一人の人間としての喜びを感じると同様に、世界にはたくさんの問題が存在する。その二つは交わるべきなのだろうか。自分の作品を世界に伝えるときに、制作者と鑑賞者の共通点として社会問題を浮き彫りにするのは正義なのだろうか。
作品を作るという個人の欲求から湧き出て始まったはずの活動が、世の中で起きる問題や政治的な社会性を持ち合わせたものだけではなく、「自分の個人的な葛藤、日常での悩み、問いかけ」などの普遍的なテーマとの出会いを求めた時、作品は、そして制作はどうあるべきなのだろうか。それらを迎合して生きるということが正解なのだろうか。もし何かを迎合する必要があるのだとすれば、「むごたらしい戦争や環境破壊」よりも「個人的な葛藤や日常での悩み、問いかけ」が人間の世界に存在する方がぼくは幸せである。