2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.12.16

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2024.12.16

 デン・ハーグのビーチで依頼を受けているビジュアルの撮影。久しぶりに夕陽を見た、波に夕焼けが映り、すぐに引いていく小波が光を捉える、再び、波に夕焼けが映り水面を赤く染める。そして、再び波は引いていき、光はその再会を喜ぶかのようにきらめく。そこに居合わせたぼくも同じくその彼らの再会を目にして嬉しくなり、しばらくの間その場から動くことができなかった。波際をただただ歩く男性も、犬の散歩をするカップルも、みんな彼らの再会を目にし顔を赤らめていた。
個人差はあるとしても、自分の考えや感受性は簡単に社会や人から影響を受けながら変化するが、制作物は意識をしないとなかなか変化していかない。思考が制作物を変化させるのだろうか。させるだろう。怠惰は締まりのない制作物を生み出す。料理人も豪快と怠惰を間違えているような人もいる。
長くその土地に住むとその土地なりの考え方が染みつくというが、実際はどうだろうか。環境が人を作るというのはあながち間違えてはないと思うが、環境が思考を作り、思考が制作物を変化させるとするならば、住む場所や生活環境を自分のものにしていくこと、愛すことは生きる上での根源なのだろうか。しかし、自分が愛すことのできないほどにひどい環境にいれば、それはそれなりの制作物を作ることができるということ。ぼくはそう信じたい。環境が直接的に作品に直結するのではなく、環境が自分というフィルターを経由し、自分自身がどんな風に捉えるか、どんな風に昇華するか、その環境でどんな挑戦をできるか、それが作品であってほしいと願う。だから、劣悪な環境でも、それでも人間の思考が、生命の力が残っている。それが希望だ。
自分がその時代に生きてた証として作品が存在するのであれば、環境に正誤性はないし、環境が悪いならそれにそのアーティストがどう呼応したかという作品が出来るだろう。