昼過ぎに毎週水曜日にやっているファーマーズマーケットが土曜日は穀物や粉物を量り売りしている。ココナッツシュガー、クスクス、黒米、カカオパウダー、ドライトマトなど調達。
家の近くのウェイマーストラートでやっているクリスマスマーケットを通る。地元の人々にとっては楽しそうなのか、外から来た人にとってはなんだか残念なのかわからないが、雨降る寒空の元、悲しげなサックス奏者が平和を掲げジョンレノン『Imagine』を歌っていた。
家に帰り、溜まっていたフィルムをスキャンする、怠惰と多忙を言い訳に随分と長い間これをやっていなかった。久しぶりに自分の写真を現像すると、ぼくの写真を撮るというスタイルが崩壊しているように見えてならない。過去も同様に同じようなことを思いながら地道にではあるが懲りずに撮り続けていて、それでも振り返ると自分らしい写真の撮り方をしているということに気付く。今回も数年後に見たときにそうであってほしいと願う。それは今ははっきりとはわからない。今日も新しく現像した写真を見て自分のスタイルの崩壊を感じながら、少しくらい不安を拭いたいと思い過去の写真にしがみつくように振り返ると、ぼくの写真の撮り方は10年くらいのまとまった時間軸でみてもそれほど変わっていないということに改めて気付き少々の不安を払拭する。そして、先日Davidに「Steidl/Mackから出てるAnders Edstromの写真集を見るとジュンを思い出した」という言葉を再び思い出し自分の写真に対する信頼を少し回復。あの2冊セットは間違いなくぼくの軸にしっかりと影響を与えた本なのである。きっと、変化しているのは、ぼくの目に飛び込んでくる世界にあるビジュアルであり、それが時に驚くほど一辺倒に偏ることもある。そして、ぼくの目がその変化している世界に溢れるビジュアルに慣れてしまい、自分のスタイルさえを疑問に思ってしまうほどなのである。実際にはぼくの撮り方はそんな簡単には変わらない、というのも器用で技術があるわけではないからだ。そして、道具と作品を作る態度にそれなりに執着しているからだ。ぼくのスタンスは変わっていないけど、自分自身が変化しているので、違和感を覚えてしまう。それで、自身の感覚の変化に合わせてスタイルを変える人もいれば、自分の感覚と撮れるもののズレを容認しながら、自分自身以上に自分が作れるものを信頼しているように見える作家もたくさんいる。感覚の変化というのは流行りのようなものの可能性もあり、一時的なものであることもあるし、同時に継続性を持っていることもある。それにしてもどの雑誌も媒体も同じ写真家やアーティストを起用しているように思えてならない。数多くいるフォトグラファーたちも失礼ながら同じような写真を撮り、誰がオリジナルなのか、何が求められているのか、雑誌はなんのために存在するのか、メディアの行いは誠実か、ぼくには理解できそうもない。レファレンスが見えすぎるというような言い方が正しいのだろうか。そんな写真の仕事をそれほどしていないぼくが考えても仕方のないような、一歩間違えるとただの文句にしかならないようなことを、文句ではない形で、自身の謙虚さを失わないように、考える必要がある。自分の世界が狭くはなっていないだろうか、常に新しいものを送り出そうとしているか、社会において異物として存在できるか。同志社香里の中学生だった頃からずっと考えている。コミュニティの中で、自分の存在価値や自分はどんな意味を持つのか。同じ方向を向くだけの人間にはなりたくないと思っていた。両親から授かり、自分で育ててきた自分の感性をその場所でも生かしたいと思っていた。今も同じである。社会において自分のやるべきことと自分の価値とをきちんと判断しながら継続するしかないのだ。ぼくが出来ることをきちんと理解し、続ける、本当にそれだけしかない。
ぼくは、一定の近すぎない距離感を好み、それでも親密でEliott Smithの音楽のように耳元であなたのためだけに歌うような作品を作りたいとずっと思っている。実態が映像に映っていなくても、それが何を写したものなのかを鑑賞者の想像力で補い、描くような作品をぼくはずっと作りたいと思っている。ヴェラスケスのグレー。
エリー・フォールによるヴェラスケス評
50歳を過ぎたヴェラスケスはもはや事物を描こうとはせず 黄昏の光と共に物(オブジェ)の周辺をさまよい
物質の影と面に息ずく多彩な動機を沈黙の交響楽の見えざる核とした
彼がひたすら描いたのは、互いに浸透し合う形と色との神秘的な交換の人知れぬ展開と継続
いかなる中止も飛躍も、告発も断続もない動きだった
空間が支配する大気の波が事物の面を滑り 事物を定義し形づくる光芒に滲み込んで
到る所にその芳香とこだまを拡散して、無限の光の埃となって四方に拡がって行く
彼が生きた世界は暗かった 頽廃の王、病める子供達、白痴に小人、廃失者達...
幾人かの道化達は貴公子然と振舞い、自らを笑い者としながら無法者どもを笑わせていた
宮廷の作法と詐術と虚言に締めつけられ、告白と懺悟で縛られていた 盗み聴きと火刑裁判と沈黙
ノスタルジックな魂のさまよい、醜さも悲しみもなく、惨めな少年期の残酷な思い出もない
ヴェラスケスは夕べの画家だ 空間(ひろがり)と沈黙の画家なのだ
画を描くのが白昼であろうと密室であろうと戦争や狩りの叫びが聞こえようと彼は変わらない
昼間は外に出なかった 空気が燃え陽が焼けつくから スペインの画家は夕べと親しんだ
家の近くのウェイマーストラートでやっているクリスマスマーケットを通る。地元の人々にとっては楽しそうなのか、外から来た人にとってはなんだか残念なのかわからないが、雨降る寒空の元、悲しげなサックス奏者が平和を掲げジョンレノン『Imagine』を歌っていた。
家に帰り、溜まっていたフィルムをスキャンする、怠惰と多忙を言い訳に随分と長い間これをやっていなかった。久しぶりに自分の写真を現像すると、ぼくの写真を撮るというスタイルが崩壊しているように見えてならない。過去も同様に同じようなことを思いながら地道にではあるが懲りずに撮り続けていて、それでも振り返ると自分らしい写真の撮り方をしているということに気付く。今回も数年後に見たときにそうであってほしいと願う。それは今ははっきりとはわからない。今日も新しく現像した写真を見て自分のスタイルの崩壊を感じながら、少しくらい不安を拭いたいと思い過去の写真にしがみつくように振り返ると、ぼくの写真の撮り方は10年くらいのまとまった時間軸でみてもそれほど変わっていないということに改めて気付き少々の不安を払拭する。そして、先日Davidに「Steidl/Mackから出てるAnders Edstromの写真集を見るとジュンを思い出した」という言葉を再び思い出し自分の写真に対する信頼を少し回復。あの2冊セットは間違いなくぼくの軸にしっかりと影響を与えた本なのである。きっと、変化しているのは、ぼくの目に飛び込んでくる世界にあるビジュアルであり、それが時に驚くほど一辺倒に偏ることもある。そして、ぼくの目がその変化している世界に溢れるビジュアルに慣れてしまい、自分のスタイルさえを疑問に思ってしまうほどなのである。実際にはぼくの撮り方はそんな簡単には変わらない、というのも器用で技術があるわけではないからだ。そして、道具と作品を作る態度にそれなりに執着しているからだ。ぼくのスタンスは変わっていないけど、自分自身が変化しているので、違和感を覚えてしまう。それで、自身の感覚の変化に合わせてスタイルを変える人もいれば、自分の感覚と撮れるもののズレを容認しながら、自分自身以上に自分が作れるものを信頼しているように見える作家もたくさんいる。感覚の変化というのは流行りのようなものの可能性もあり、一時的なものであることもあるし、同時に継続性を持っていることもある。それにしてもどの雑誌も媒体も同じ写真家やアーティストを起用しているように思えてならない。数多くいるフォトグラファーたちも失礼ながら同じような写真を撮り、誰がオリジナルなのか、何が求められているのか、雑誌はなんのために存在するのか、メディアの行いは誠実か、ぼくには理解できそうもない。レファレンスが見えすぎるというような言い方が正しいのだろうか。そんな写真の仕事をそれほどしていないぼくが考えても仕方のないような、一歩間違えるとただの文句にしかならないようなことを、文句ではない形で、自身の謙虚さを失わないように、考える必要がある。自分の世界が狭くはなっていないだろうか、常に新しいものを送り出そうとしているか、社会において異物として存在できるか。同志社香里の中学生だった頃からずっと考えている。コミュニティの中で、自分の存在価値や自分はどんな意味を持つのか。同じ方向を向くだけの人間にはなりたくないと思っていた。両親から授かり、自分で育ててきた自分の感性をその場所でも生かしたいと思っていた。今も同じである。社会において自分のやるべきことと自分の価値とをきちんと判断しながら継続するしかないのだ。ぼくが出来ることをきちんと理解し、続ける、本当にそれだけしかない。
ぼくは、一定の近すぎない距離感を好み、それでも親密でEliott Smithの音楽のように耳元であなたのためだけに歌うような作品を作りたいとずっと思っている。実態が映像に映っていなくても、それが何を写したものなのかを鑑賞者の想像力で補い、描くような作品をぼくはずっと作りたいと思っている。ヴェラスケスのグレー。
エリー・フォールによるヴェラスケス評
50歳を過ぎたヴェラスケスはもはや事物を描こうとはせず 黄昏の光と共に物(オブジェ)の周辺をさまよい
物質の影と面に息ずく多彩な動機を沈黙の交響楽の見えざる核とした
彼がひたすら描いたのは、互いに浸透し合う形と色との神秘的な交換の人知れぬ展開と継続
いかなる中止も飛躍も、告発も断続もない動きだった
空間が支配する大気の波が事物の面を滑り 事物を定義し形づくる光芒に滲み込んで
到る所にその芳香とこだまを拡散して、無限の光の埃となって四方に拡がって行く
彼が生きた世界は暗かった 頽廃の王、病める子供達、白痴に小人、廃失者達...
幾人かの道化達は貴公子然と振舞い、自らを笑い者としながら無法者どもを笑わせていた
宮廷の作法と詐術と虚言に締めつけられ、告白と懺悟で縛られていた 盗み聴きと火刑裁判と沈黙
ノスタルジックな魂のさまよい、醜さも悲しみもなく、惨めな少年期の残酷な思い出もない
ヴェラスケスは夕べの画家だ 空間(ひろがり)と沈黙の画家なのだ
画を描くのが白昼であろうと密室であろうと戦争や狩りの叫びが聞こえようと彼は変わらない
昼間は外に出なかった 空気が燃え陽が焼けつくから スペインの画家は夕べと親しんだ