西洋人は総じて主観的であるが、日本人は客観的である。
フットボールなどでも長年「日本人には個が足りない」とか、ヨーロッパで教育を受けた人の話などで「自分の意思をはっきりと伝えましょう」と指摘され、自分がいかに具体性を持っていなかったかについて考えさせられたかという話をよく聞くが、それは単純に西洋文化においては、当たり前とされていることだろう。自分が何を食べたいか、自分がどうありたいか。一方、間を認識するとか、そこにあるものにどんな風に自分がコミットできるのかを考える、それは日本人の得意なことではないだろうか。気が利くというのはそういうことだろう。
Instagramを見ていてそう思った。西洋の人々は、自分をよく見せること、自分が誰で何か何者なのかをはっきりと伝えることにとても長けている。時に、多くを語り「自分は誰か」を恥ずかしげもなく表現する。それは、インターネット文化なのか、もしくは西洋文化なのか、あまりインターネットでの遊び方について考えてこなかったぼくにはわからないが、インターネットが西洋人が作り、世界を作ってきたことを考えると、インターネットの構造というものが西洋的思考の元に成り立っていると言っても良いだろう。
日本人にも、西洋人同様に、自分を伝えるのが上手な人たちはたくさんいるが、わかりやすく自分を見せることを毛嫌いする、もしくは斜に構えている人も多いのではないか。例えば、女性の例で女性読者には大変失礼になってしまった場合には大変申し訳ないが、全裸ヌード以上に服もしくは下着を脱いでいないことを好むフェティッシュが存在する。そこに自身が想像力という形で主体的に入り込むことを好む。さらに、他の例えをすると、日常の会話の中であれば、自分の趣味を伝えるのではなく、相手の話を聞いた上で話を発展させる会話の方法を取るのが日本人に多い傾向であるような気もする。ぼくなんていうのは日本人だとかいうアイデンティティ以上に根っからの優柔不断であることは周知の事実であるが、例えば、レストランに行ったとする。席に着くと、ウェイターがメニューを見る間も与えずに「ドリンク何にしますか?」と聞いてくる。ぼくは、大体答えられない。多くの場合「何がありますか?」という質問で返答し、スパークリングウォーターを頼む。次に来店して隣の席に座った西洋人を見ていると、「シラーが飲みたい」という彼自身の意思を伝える。それがそこにあるとかないとかはまず別の話なのである。なければ何か違うものの提案をされる。ぼくなんかは、隣の人が自家製のエルダーフラワーなんかを注文していて、「あ、自家製のエルダーフラワーも良かったな」とかスパークリングウォーターが出てくるまでずっと注文を変更しようか、もうきっと栓を抜いているのだから、今更などと、考えているのだ。そして、大抵の場合、スパークリングウォーターを飲むと満足している。ぼくは、まず客観的に物事を捉えることから始まり自分の主観を持つ、彼らはあくまで最初から自分自身の主観性を大切にする。
少し話が変わるが、コムデギャルソンが、ファッションという西洋文化の中で独自の成熟をして現在の姿をみせ、世界においてファッションの価値を高めてきたのも、まずはアイデンティティを確立するためには、明るい洋服が良いとされてきた時代に、やはり西洋という文化の上で黒くて穴の空いた洋服を西洋で発表する必要があった。コムコムではなく、コムデギャルソンを西洋の文脈の中で発表する必要があったのだと考えたい。
では、先人からぼくたちが何を学んでいくのか、ぼくたちが出版社として、もしくはぼく自身が作家として西洋文化の中で今後成熟していくことを考えると、やはり自分の位置を客観的に把握し、そこに入り込み、その中で主観を成熟させるしかないのだ。やはり西洋から見た日本は、独自の言語を話す、特異な文化を持った国であるという認識だ。改めてそう考えると世界では、日本人の「世界における異物感」を楽しんでいる人間が多いなと思うし、僕たちもそれに甘えてしまい、独自の成熟を見せられていないのではないだろうか。写真業界では特に、桜の木や富士山、盆栽などをモチーフに侘び寂びのような西洋における「異物」として確立した美学を盾に戦う人間もいるが、ぼくはそこに美しさを感じない。それが日本人だからという話ではなく、川久保のように世界の「異物」として受け入れられ、その「異物」を熟成させとても異物とは言い切れないほどに新しい世界を構築するべきなのだ。日本人というのは、80年代後半までの社会の発展がそうであったように、世界における異物として自分の価値を認識し、それを主観的な目を持って独自に成熟させる力がある。
あくまでここで書いたことは、「従来の名残としての西洋」という話であり、現代は地域ごとのキャラクターというのがどんどん無くなり始めており、西洋人と日本人の比較などできるような時代ではなくなってきているのだ。それでも土着的な文化はその土地土地で営まれている。西洋といえど、オランダとフランスでも違うし、イギリスとイタリアでも大きく違う。21世紀において、西洋とは。日本人の文化とは、失われた30年とは。
もっと勉強しないといけないということは横に置いておいて、ぼく自身世界のルールと熟成方法を知るということ。
フットボールなどでも長年「日本人には個が足りない」とか、ヨーロッパで教育を受けた人の話などで「自分の意思をはっきりと伝えましょう」と指摘され、自分がいかに具体性を持っていなかったかについて考えさせられたかという話をよく聞くが、それは単純に西洋文化においては、当たり前とされていることだろう。自分が何を食べたいか、自分がどうありたいか。一方、間を認識するとか、そこにあるものにどんな風に自分がコミットできるのかを考える、それは日本人の得意なことではないだろうか。気が利くというのはそういうことだろう。
Instagramを見ていてそう思った。西洋の人々は、自分をよく見せること、自分が誰で何か何者なのかをはっきりと伝えることにとても長けている。時に、多くを語り「自分は誰か」を恥ずかしげもなく表現する。それは、インターネット文化なのか、もしくは西洋文化なのか、あまりインターネットでの遊び方について考えてこなかったぼくにはわからないが、インターネットが西洋人が作り、世界を作ってきたことを考えると、インターネットの構造というものが西洋的思考の元に成り立っていると言っても良いだろう。
日本人にも、西洋人同様に、自分を伝えるのが上手な人たちはたくさんいるが、わかりやすく自分を見せることを毛嫌いする、もしくは斜に構えている人も多いのではないか。例えば、女性の例で女性読者には大変失礼になってしまった場合には大変申し訳ないが、全裸ヌード以上に服もしくは下着を脱いでいないことを好むフェティッシュが存在する。そこに自身が想像力という形で主体的に入り込むことを好む。さらに、他の例えをすると、日常の会話の中であれば、自分の趣味を伝えるのではなく、相手の話を聞いた上で話を発展させる会話の方法を取るのが日本人に多い傾向であるような気もする。ぼくなんていうのは日本人だとかいうアイデンティティ以上に根っからの優柔不断であることは周知の事実であるが、例えば、レストランに行ったとする。席に着くと、ウェイターがメニューを見る間も与えずに「ドリンク何にしますか?」と聞いてくる。ぼくは、大体答えられない。多くの場合「何がありますか?」という質問で返答し、スパークリングウォーターを頼む。次に来店して隣の席に座った西洋人を見ていると、「シラーが飲みたい」という彼自身の意思を伝える。それがそこにあるとかないとかはまず別の話なのである。なければ何か違うものの提案をされる。ぼくなんかは、隣の人が自家製のエルダーフラワーなんかを注文していて、「あ、自家製のエルダーフラワーも良かったな」とかスパークリングウォーターが出てくるまでずっと注文を変更しようか、もうきっと栓を抜いているのだから、今更などと、考えているのだ。そして、大抵の場合、スパークリングウォーターを飲むと満足している。ぼくは、まず客観的に物事を捉えることから始まり自分の主観を持つ、彼らはあくまで最初から自分自身の主観性を大切にする。
少し話が変わるが、コムデギャルソンが、ファッションという西洋文化の中で独自の成熟をして現在の姿をみせ、世界においてファッションの価値を高めてきたのも、まずはアイデンティティを確立するためには、明るい洋服が良いとされてきた時代に、やはり西洋という文化の上で黒くて穴の空いた洋服を西洋で発表する必要があった。コムコムではなく、コムデギャルソンを西洋の文脈の中で発表する必要があったのだと考えたい。
では、先人からぼくたちが何を学んでいくのか、ぼくたちが出版社として、もしくはぼく自身が作家として西洋文化の中で今後成熟していくことを考えると、やはり自分の位置を客観的に把握し、そこに入り込み、その中で主観を成熟させるしかないのだ。やはり西洋から見た日本は、独自の言語を話す、特異な文化を持った国であるという認識だ。改めてそう考えると世界では、日本人の「世界における異物感」を楽しんでいる人間が多いなと思うし、僕たちもそれに甘えてしまい、独自の成熟を見せられていないのではないだろうか。写真業界では特に、桜の木や富士山、盆栽などをモチーフに侘び寂びのような西洋における「異物」として確立した美学を盾に戦う人間もいるが、ぼくはそこに美しさを感じない。それが日本人だからという話ではなく、川久保のように世界の「異物」として受け入れられ、その「異物」を熟成させとても異物とは言い切れないほどに新しい世界を構築するべきなのだ。日本人というのは、80年代後半までの社会の発展がそうであったように、世界における異物として自分の価値を認識し、それを主観的な目を持って独自に成熟させる力がある。
あくまでここで書いたことは、「従来の名残としての西洋」という話であり、現代は地域ごとのキャラクターというのがどんどん無くなり始めており、西洋人と日本人の比較などできるような時代ではなくなってきているのだ。それでも土着的な文化はその土地土地で営まれている。西洋といえど、オランダとフランスでも違うし、イギリスとイタリアでも大きく違う。21世紀において、西洋とは。日本人の文化とは、失われた30年とは。
もっと勉強しないといけないということは横に置いておいて、ぼく自身世界のルールと熟成方法を知るということ。