2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.12.1

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2024.12.1

ついに2024年の最後の月になった。もうオランダに来てから一年が経過した。あっという間に時間が過ぎて行ったような気もするし、振り返れば色々なところへ行き、想像もしていなかったような場所へ行き、鴨がネギを背負ってくるということもあれば、苦虫を噛むような経験もし、浮き沈みの多い一年だった。沈みが多いか。それは、自分が自分の人生に対して望んでいる側面を垣間見ているような気もした。
忙しすぎるわけではないのだが、ぼくの計画力や遂行力のなさから、11月までの数ヶ月の怒涛の時間を過ごし、Cairo Apartmentの販売も少し形になってきて計画していたことの流れが見えてきたので、自分の制作について考える時間もやっと増えてきた。数日前に三脚を抱えて徘徊していると、この写真撮影の方法を取るのであれば、自分が撮りたいものは「季語」を意識して撮るべきだと具体的に認識してから、「季語」の組み合わせや社会情勢によって起きる出来事を今の場所と時間なりにもう少し深く考察するべきではないかと思った。過去の作品は捻じ曲げられることはないと信頼しているところがあるが、同時に過去の作品を読んでいても見えてこないものは数多く存在し、同時代の作家からしか感じ取れないものが多数存在する。ぼくは、あまり同時代を意識してこなかったところもあり、理解が不足していたが、同時代の作家は、現代であることを具体的に意識しているのかと感心。
夜、濱口竜介監督『偶然と想像』を鑑賞。第三篇が終わった時に、「あ、これで終わりなのか、もう一編見たい」と思わされるほどにとても面白くて、考えさせられた。各編に特に影響し合うような関連性があるわけでもないので、エリック・ロメール『六つの教訓話』のようだった。この三編の中で共通する「偶然」が、映画という誰かの手によって作られたものの中で浮かび上がるのを見ていると、映画や作品の中での偶然性というのはなんだろうかと『偶然と想像』で狙われていた偶然とはまた違う意味合いの偶然性について疑問に思った。それは考えられて計画的に行われたあくまで偶然という姿をしたものである。
それを映画の中で物語るということは、映画というある種の虚構空間の中で虚構性を排除するためであるのだろうか。『偶然と想像』では、いかにも日常的な物語が展開する中で、その物語の中で偶然性が一つの虚構のようであり、鑑賞者や演者でさえも、こういうことあり得るよねというほどにリアリティを持った偶然が各編で登場する。
もちろん映画といえども現実世界で撮影されて編集されたものである故に、ここで捉えられる「偶然」とはまた別に映画の中での想像もしない偶然性というものも存在し、撮影場所によっては天候に左右されることもあれば、ストリートで行われることによってなど、他にもあるだろうが、例えば長回しにすることによって、不確定要素が作られた虚構の中にどんどんと含まれていく。それを「偶然」がひょいと忍び込むのだろうか。この映画でタイトルにある「偶然」とは全く違う側面を持った偶然が作品には存在する。
『偶然と想像』内では、鑑賞者に想像を委ねた部分も面白いと思った。実際に登場人物の言葉で語られるものと登場人物の表情や演技が語るものの不一致から、鑑賞者が勝手に想像するもの、また登場人物各々が想像していることなどが、入り混じり、新たな物語が映画の画面の中だけではなく外で展開しているような気がして、よく考えられた映画だなと思った。写真にも文学にもない映画ならではの側面を見せられて、羨ましく思った。昔からぼくは映画が作りたいと思っていた。
物語の話でいうと、その偶然がなければ、登場人物たちの想像すらもなかったという構図に興奮。映画批評ではなく、映画をみて、自分の視点で自分の日常生活や活動の中で疑問に思っていることとリンクしたことについて書いている。的を得ていない映画批評のような文章になったが、これは映画批評ではなく、日記である、と誤解を招かないように最後に書くことにする。