ステラの散歩に行く。ここのところとても寒かったので、中にフーディを着て、ダウンを羽織り、ジャケット、手袋と、かなり着込んで家を出たが、拍子抜けするほどに暖かい。家に帰って気温を見たら13℃だった。今日は16℃まで上がるらしい。
14時に家を出て、森を抜けて、海へひたすら歩く。三脚を担いで歩いているが、三脚がないと見えないものもある。ぼくのカメラサイズで三脚は必要ないかもしれないが、三脚を持っていても家に置きっぱなしにしていると三脚の意味がないというような記事を読み、なんとなく感心した。結局、何も家に置きっぱなしでは何も意味がないのである。「ものは使われてなんぼ」という考え方は、単純だが、その考え方にはきちんと実態が伴っている。そういう点では、うちにあるものの多くは使われるためにしか存在していないものが多い。椅子は少し多いかもしれない。、足りないかなと思っているくらいの方が、使っているかもしれないし、そのもの本来の意味を越えた利用方法をされるので、人間の知恵と道具が融合して、ぼくはなんとなく好きだなと思う。この三脚は一時期、コート掛けとしても使われたし、今でも天井に取り付けられたファイヤーアラームが鳴った時には伸ばしてボタンを押すのに使われている。
14時に家を出て、森を抜けて、海へひたすら歩く。三脚を担いで歩いているが、三脚がないと見えないものもある。ぼくのカメラサイズで三脚は必要ないかもしれないが、三脚を持っていても家に置きっぱなしにしていると三脚の意味がないというような記事を読み、なんとなく感心した。結局、何も家に置きっぱなしでは何も意味がないのである。「ものは使われてなんぼ」という考え方は、単純だが、その考え方にはきちんと実態が伴っている。そういう点では、うちにあるものの多くは使われるためにしか存在していないものが多い。椅子は少し多いかもしれない。、足りないかなと思っているくらいの方が、使っているかもしれないし、そのもの本来の意味を越えた利用方法をされるので、人間の知恵と道具が融合して、ぼくはなんとなく好きだなと思う。この三脚は一時期、コート掛けとしても使われたし、今でも天井に取り付けられたファイヤーアラームが鳴った時には伸ばしてボタンを押すのに使われている。
iphoneのメモに「Six songs of the invisible matter 」というメモ書きを見つけた。どこから取った言葉なのか、それとも自分で思いついた言葉なのかのメモがないので思い出そうにも思い出せないのだが、最近気に入っていて2025年に出版したいと思っているぼくの本のテーマになるそうだ。目に見えない問題についての6篇の賛歌、「Six hymns for the invisible matter」の方がいいか。そんな言葉を頭に入れながらカメラを抱え、「ものは使われてなんぼ」という言葉が時々横槍を入れるように、思考を巡らしながらキョロキョロしながら歩く。5回ほどシャッターを押した。どれもなかなかいいと思った。途中で三脚をセッティングしていると、同じく三脚を抱えて歩いてきた青年に「フィルムカメラですか?」と声をかけられた。「そうだよ」とぼくはいい、彼はシンプルに「Black or colour?」と尋ねた。ぼくも一言シンプルに「カラー」とだけ答えた。「写真を撮るのにいい時間だね、楽しんで」とさらに続いた。ニュージーランドのEmileと似た声色をして、嫌味なくいきった印象もなくとても爽やかだった。
結局17時半ごろに家に帰宅。17時前にはもう真っ暗になってしまうので、暗いうちからベッドを出て、活動しないと1日の生産性が少ない。最近、Cairo Apartmentから新しい書籍が出たこともあり、自分の制作から離れてしまったような交渉とやり取りが続いていたので、少し自分の制作活動のための頭を取り戻すためにいい日になった。出版社として、他のアーティストや作家と協働し、本を作る、作家の違う側面を映し出すこと。それはCairo Apartmentとしてぼくがやりたいことの一つであることには間違いない。しかし、聖子ちゃんがデザインをしているせいか、それは二人の関係性の中で生じる軋轢のようなものにも思われるかもしれないが、二人の仕事分担の関係で、ぼくがお金の話と交渉ばかりをすることになるのだが、忙しくなるとぼくはナラティブを伝えること以上に各所へのメールとお金の話、営業ばかりでバランスが崩れてしまってしまっていることに気付き、本来自分が出版社を通じてやりたいことにはなかなか届いていないような虚無感というか、悲しさまで生まれている。決して本を売りたくないとか、交渉による新しいの価値の創出が嫌だという話ではなく、むしろそれも本をデザインしたり編集したりすることと同様に重要なことだと認識しているのだが、単純に自分の中本来解決するべきバランスの問題である。細かく話したいし、色々なことを加味した上で人と人としての対話をしたいと思いすぎるが故に、どうも気を抜くと心の隙間からヒョロヒョロと虚無感が入ってくることがある。同じ業界で客を取り合うとか、掛け率の話を延々とするとか、送料の話をし続けるとか、そんなことではなく、全員が同じ船に乗っているという意識のもと話がしたい。ぼくが憧れる社会においては、出版社として、一社だけが成立することなんていうのはありえず、違いを愛でることで、生み出される人間の柔軟さとか豊かさ、ユーモアさ、品格のようなものを大切にしたい。そのためには多くの人たちが思慮深く、真摯にものごとに向き合う環境があればいいと思っている。書店やブティックがあり、購入してくれる人たちがおり、作家がいる。みんな各々の立場から意識と責任を背負っている。書店をしながら、デザインの仕事を受けることで書店を成立させているような人もいれば、書籍をきちんと伝えることによって書店やその地域を盛り上げるような人もいる。それは各々の形であり、優劣がつけられたものではないし、皆が何かしらの形で同じ方向を向いて前に進んでいる状況にぼくは喜びを感じたいと思う。社会のダイナミズムと、人間のユーモアと品格を育てることに本が一端を担っていて欲しいと願う。本を買うこと、本に触れる、読む、家に所有するという機会が増えたり大きくならないことには書籍文化は狭い世界でしか問題解決の糸口を持とうとしないのではないか。いかに最低限の基礎と保てるか、そこから少しくらいは現状を拡張できるのかということに挑戦しているという側面を出版社としてぼく自身は持っていると思っているが、「そんなことをぼくが考える必要あるのだろうか」という風に思うことだってある。しかし、「そんなことを考える必要があるのだろうか」と思わしてしまう社会には問題があるのではないか。
この前に日本に帰った時に「無用の用」という言葉が叔父の家の玄関にかけられているのを見て、当たり前のように心にスッと入ってきた。自分の指針にしよう思ったわけではないもののぼくの頭の中からその言葉が離れず、何かある度に頭の中をよぎる。最近、サインをかくこと機会も増えたので、名前だけではなくこんな風な言葉をいれるのもいいなと大江健三郎と渡辺一夫の話を読んでから思っている。「無用の用」調べてみると荘子の言葉であった。「無用の用」も思慮深くならないと見えてこない概念ではないだろうか。
結局17時半ごろに家に帰宅。17時前にはもう真っ暗になってしまうので、暗いうちからベッドを出て、活動しないと1日の生産性が少ない。最近、Cairo Apartmentから新しい書籍が出たこともあり、自分の制作から離れてしまったような交渉とやり取りが続いていたので、少し自分の制作活動のための頭を取り戻すためにいい日になった。出版社として、他のアーティストや作家と協働し、本を作る、作家の違う側面を映し出すこと。それはCairo Apartmentとしてぼくがやりたいことの一つであることには間違いない。しかし、聖子ちゃんがデザインをしているせいか、それは二人の関係性の中で生じる軋轢のようなものにも思われるかもしれないが、二人の仕事分担の関係で、ぼくがお金の話と交渉ばかりをすることになるのだが、忙しくなるとぼくはナラティブを伝えること以上に各所へのメールとお金の話、営業ばかりでバランスが崩れてしまってしまっていることに気付き、本来自分が出版社を通じてやりたいことにはなかなか届いていないような虚無感というか、悲しさまで生まれている。決して本を売りたくないとか、交渉による新しいの価値の創出が嫌だという話ではなく、むしろそれも本をデザインしたり編集したりすることと同様に重要なことだと認識しているのだが、単純に自分の中本来解決するべきバランスの問題である。細かく話したいし、色々なことを加味した上で人と人としての対話をしたいと思いすぎるが故に、どうも気を抜くと心の隙間からヒョロヒョロと虚無感が入ってくることがある。同じ業界で客を取り合うとか、掛け率の話を延々とするとか、送料の話をし続けるとか、そんなことではなく、全員が同じ船に乗っているという意識のもと話がしたい。ぼくが憧れる社会においては、出版社として、一社だけが成立することなんていうのはありえず、違いを愛でることで、生み出される人間の柔軟さとか豊かさ、ユーモアさ、品格のようなものを大切にしたい。そのためには多くの人たちが思慮深く、真摯にものごとに向き合う環境があればいいと思っている。書店やブティックがあり、購入してくれる人たちがおり、作家がいる。みんな各々の立場から意識と責任を背負っている。書店をしながら、デザインの仕事を受けることで書店を成立させているような人もいれば、書籍をきちんと伝えることによって書店やその地域を盛り上げるような人もいる。それは各々の形であり、優劣がつけられたものではないし、皆が何かしらの形で同じ方向を向いて前に進んでいる状況にぼくは喜びを感じたいと思う。社会のダイナミズムと、人間のユーモアと品格を育てることに本が一端を担っていて欲しいと願う。本を買うこと、本に触れる、読む、家に所有するという機会が増えたり大きくならないことには書籍文化は狭い世界でしか問題解決の糸口を持とうとしないのではないか。いかに最低限の基礎と保てるか、そこから少しくらいは現状を拡張できるのかということに挑戦しているという側面を出版社としてぼく自身は持っていると思っているが、「そんなことをぼくが考える必要あるのだろうか」という風に思うことだってある。しかし、「そんなことを考える必要があるのだろうか」と思わしてしまう社会には問題があるのではないか。
この前に日本に帰った時に「無用の用」という言葉が叔父の家の玄関にかけられているのを見て、当たり前のように心にスッと入ってきた。自分の指針にしよう思ったわけではないもののぼくの頭の中からその言葉が離れず、何かある度に頭の中をよぎる。最近、サインをかくこと機会も増えたので、名前だけではなくこんな風な言葉をいれるのもいいなと大江健三郎と渡辺一夫の話を読んでから思っている。「無用の用」調べてみると荘子の言葉であった。「無用の用」も思慮深くならないと見えてこない概念ではないだろうか。
特に怒っているわけでもなく、絶望的な気分な訳でもなく、ぼく自身が傲慢にならないように自分に向けて戒めの言葉として、ここに書きたいと思った。いや、2024年11月24日の20時ごろには絶望的な気分だったかもしれない。