2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.11.23

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2024.11.23

遅めの日記を書き終え、夕方ランニングに行く。ビーチまで往復40分ほど。6.5kmを40分という1km6分程度のスピードであるが、継続していると歩くことなく走り切れるようになってきた。今日は最高気温3度で、風が強く横殴りの雨が降る中でのランニングだったが、それでも自分の意思を持って「ランニングをする」という時間を取ることができたのは、ぼくにとっては素晴らしいことである。走ること自体も重要ではあるが、寒くて暗いから億劫になるとか、別に誰にも頼まれてないから、という言い訳を自分の中からなくして17時前に家を飛び出すことができたことが何より素晴らしい。言い訳というのは他者のためのものであり、自分のためではない。自分のもののようでありながら、誰かや何かへの言い訳なのである。そんな風に考えると、誰に頼まれてもないことが自分自身のものであるとも言えるか。自分自身の存在について考えたときに、自分自身であるべきだという前提を持ってしまったという際には、自分自身が社会に存在する価値というのは一体なんなんだと思う。思考を繰り返し、言葉やイメージを残すことが何かのためになると信じて続けることが自分自身の存在について考えることでもあるのだろうか。社会に存在する価値と自分自身でありたいという私欲のようなものとがうまく接点を持つ、そんなことはあるのだろうか。家に帰りシャワーを浴びながらそんなことを考えた。
夕食後、ステラの散歩に行き、街を徘徊していると住んでいるブロックから数ブロック先に行ったところにかなり賑わっているレストランが出来ていた。夏頃までは古風なイタリアンレストランだったが、構造的には居抜き物件だろう、改装され、うちの近くのカフェBowieに影響されたかのような内装と佇まいをしている。しかし、どちらにも言えることだが、客層がなかなかぼくには馴染みがない感じなのである。ガラス張りで中の賑わいが街に漏れ出すようなお店が増えることは、嬉しい。特に冬の寒空の下に、室内の熱気が伝わり曇ったガラス越しにオランダらしい優しいオレンジ色の光を街に届けてくれる風景はなかなか美しいと思う。寒い中街を歩いていて光が漏れ出すのを見ているとオランダの街には冬がとても似合うなと思わされる。去年もそうだった。そのお店に行きたいと思わされるかは別としても、街にまた新たな光が生まれたことをぼくは素直に喜ぶべきだろう。