8時に起きて洗濯物を洗濯機に突っ込んで、1時間ほどステラの散歩に行く。10時過ぎにコーヒーとバゲットを食べる。洗濯物を干し、昼過ぎまであれこれと作業をして、14時半ごろにベーコンと芽キャベツのリゾット。オランダに帰ると再び、時間のズレた生活が始まった。朝は、7時40分にアラームをして、8時には起きようと思いながらも、なかなか起きられず、二度寝をしたりしながら8時半までには起きるようにはしているが、顔を洗って歯を磨いて、洗面所で鏡を見ながら笑ったり、体操をする。ステラの散歩に行き、聖子ちゃんが10時ごろに起きてくるので、コーヒーを淹れ、朝食を食べる。それがデン・ハーグの生活の始まりである。朝、時間をうまく過ごす方法はPCやIphoneを極力触らないこと。それから、日記を書いたりなんだかんだしているとランチの時間が14時から15時頃になり、結局日が暮れる頃にはあまりお腹が減ってなくて夕食をあまり食べないような生活。もちろん、もっと早く起きて朝の時間を充実させるというのも考えようによっては正解だと思うが、自分の中でまだリズムを掴めていないのは、起きる時間ということ以上に、朝の時間を聖子ちゃんと合わせようとするもんだから、結局なんだかんだ自分の時間を掴んだ生活をできていない日々なのだろう。合わせる必要ないという意見もあるだろうが、ぼくは、合わせないのであればなぜ同じ家で一緒に生活しているのかともよく考える。家族で夕食を一緒に食べたり、なんとなく朝も一緒の時間に食べたりしている経験が多いからだろうか。もしくはそんな光景を目にしてきたからだろう。しかし、23時台には布団に入るぼくとは違って、聖子ちゃんは夜に仕事をしているので、早く寝て早く起きるということはないだろう。聖子ちゃんは何事も人に合わせるような性格ではないので、ぼくが大体合わせることになる。まあ、それが自分たちの生活スタイルなのであればそれをあまり悲観的に捉えずにその中で自分の時間の流れのようなものを捉えていくしかないのである。自分の時間は自分だけのものなのである。しかし、そんなことを考えていると、自分の捉えている時間というものや持っている時間というものが自分のものだとしても、自分自身というのは、本当の意味で自分のものだろうかとふと思った。自分では自分自身だと思っているその身体も思考も、本当の意味では自分のものではないのではないか。たとえば、自分自身の全身特に顔を客観視するには鏡が必要であるが、洋服屋で働いている人間や鏡を磨く職人を除いては多くの時間を鏡の前で過ごすのではない。その見た目は、人のために存在するのである。人のためというとかなり語弊がありそうではあるが、自分自身が対峙する他人が見るものとして、存在する。そう考えると、自分の見た目というものさえも、自分のものではなく、他者のものであるのではないか。そこに個性としての髪型や化粧、洋服の着方、振る舞い方、笑顔の作り方、姿勢などがあるとしてもそれは自分の個性ではあるが、自分のものとして自分自身に戻ってくるものではなく最終的には対峙する他者のものとして存在しているようではないか。変な髪型をするのも、汚い見た目をするのも、個人の自由で個性ではあるが、それが他者のものであるとして捉えた場合には、自分自身が社会性を持ったコミュニティあるいは対人関係の中にいるのだとすると、なおさらである。また、思考でさえも、他者や対峙するものや感情との関係によって生まれているぼくたちの生きるこのような状態においては、その思考でさえもピュアに自分のものではないとしか思えず、身体性も思考においても自分自身というものはどこに宿るのだろうか。自分の存在というものが本当の意味で自分自身のものであるというのは、自分が捉えようとしている時間とか、自分のための習慣とか、目の前を移ろいゆく感情を捉えて形にするとか、そういうことでしか理解することができないのではないか。本当の意味で自分自身をこの世の中に存在させているのは、自分の物質的な存在ではなく一般的には不確かだと言われる時間を捉える力だとか、人が目印のように日々の中に持つ習慣とか、感情とかそんなもののみではないだろうか。
自分が自分自身であることについては、もう少し考えたいが今日は日記を書くのが遅くなってしまい、今は11月23日の16時33分。今日の日の入りは16時41分なので、今準備をしてランニングに行かないと辺りは真っ暗になってしまうので切り上げることにする。
自分が自分自身であることについては、もう少し考えたいが今日は日記を書くのが遅くなってしまい、今は11月23日の16時33分。今日の日の入りは16時41分なので、今準備をしてランニングに行かないと辺りは真っ暗になってしまうので切り上げることにする。