今日のように絶望的な気分の日が時々訪れる。何もしたくないし、できない。ほとんど一日中部屋に篭っていた。そんなことをしたところで何が起きるわけでもないし、自分の人生や生活が誰かの手によって好転するなんてことは望んでもなかなか起きない。逆に誰かの手によって、もしくは自分が判断を誤り、大変なことになるなんてことはよくあるだろう。それでも自分自身にしか自分の生活する権利はなく、自分の生活に忍耐と、変革をもたらすために向き合うしかないのである。どれだけ怒っていたとしても5秒ほど目を閉じて、太陽の日差しに意識を向けたり、頭のてっぺんに身体の気を動かす、みたいなことをすると、目の前にある生活がフレッシュになるということもある。そうやって新しい目の前を見る方法を自分なりに編み出さなければいけない。
東大大学院のwebジャーナルで野上貴裕さんによる『シチュアシオニストの「日常生活」論』、とても興味深かったので、そこから少しだけ引用。ぜひ全編読むことをお勧めします。
「アガンベンが指摘したように、私たちは完全には私たちの自由にならないものと関係しつつ生きていくしかない。いわゆる外的なもの、すなわち大地や気候、環境、他者などをはじめ、言語や、「自らのもの」として登録されがちな身体や精神なども完全にコントロールすることは不可能である。それでも私たちは、それらが私たちに対してもつ異邦性を何とか馴致し、親密なものへともたらすことで生を何とか生きうるものにする。習慣を生み出すこと、あるいは自らの生のスタイルを作り出すこととは、世界の異邦性を縮減することにほかならない。もちろん私たちが扱うさまざまなものの疎遠さが根本的に消え去ってしまうことはない。世界は突然私たちに牙を剝くし、身体は突然不調を告げる。そのようなとき、私たちの世界や身体はコントロール不能な他者として立ち現れる。いかに習慣化され同じことを繰り返す生活であったとしても、その日常は極めて脆弱なのだ。日常とは従って、世界の異邦性と私たちによるその親密化とがせめぎ合う、絶えざる緊張の場であると言える。私たちは「形式化」あるいは「スタイル化」という武器をもって異邦性を内に巻きこみつつ何とか防波堤としての習慣を形作るしかない。」