2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.11.18

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2024.11.18

日が暮れた頃にゆっくりビーチまでの片道3km弱を往復45分ほどでランニング。もう少し家からビーチまで近ければ、ビーチ沿いを走るなんてこともできるのだろうけれど、今の体力ではビーチまで走るので充分だと思ってしまう。自転車であればビーチまで大体10分なので、自転車で行ってしまって走るというのも一つだが、ビーチだけを走るというほどにはぼくはまだランニングに注力していない。今はランニングが、1日の中では「気分転換」の一つくらいでしかない。この街の寒く暗い冬を乗り越えるための秘策として、ランニングを始めたくらいのことなので、まだ継続できるのか、そもそも走り続けたいと思えるのかすらわからない。ぼくの生活から走るという習慣がなくなって久しいが、また5年以上前の頃のように毎日10km弱走ってから仕事をするというようなことになるのだろうか。あの頃は走らないとどうも心が落ち着かなたった。人の人生というのは5年でどのくらい大きく変化するのだろうか。この5年で社会は大きく変わったし、自分の身体も変化した気がする、表情も、体から放たれるエネルギーも変化したような気がするが、自分のやっていることはそれほど変化していない。むしろ、同じようにまだ悶々としてお金を稼ぐことと自分の仕事を作ることがまだ形にならないという堂々巡りをしている。5年前と同じように自分の社会における意味とか人生を生きる意味みたいなものを考えながら生きていても、自分がどれほど社会に価値があるのかなんて想像もつかないし、人生でぼくが何を得ることができるのかすらわからない。少しくらいは社会に価値があったり役に立っているということを願うが、具体的にいうとお店に行ってもそれほどお金を使うわけでもなければ、人の作ったものの全てを買っているわけでもないので、経済すら回せていないかもしれない。しかし、「何かをやろうとする意思」みたいなものはきっと人々に伝わっているのではないかと時々知人や友人らと話していると思う。最近、同世代の友人らから「ジュンは勇敢だ」ということをよく言われるようになった。別に自分自身では勇敢だとすら思っていなかったが、そうやって勇敢だと思ってくれている人がいるということは自分自身を誇らしく思えることであると思うし、ぼくもその形で人に何か刺激を与えているといいなと思う。
希望を語ることをぼくはそれほど自分がしたいとは思わないが、それ以上にやりたいことに向かっている姿や、冬のヨーロッパみたく暗く先の見えないところで忍耐強く自分のやりたいことができるように火を絶やさない姿は自分らしくもあると思うし、そんな風な姿をしている人からは大きな刺激をもらう。誰かにとって自身もそんな存在であればいいなと思う。
5年間の変化とか、成長、そんなことを考えるのならもう少しこの文章だって丁寧に書けばいいのにと言われそうだし、自分でもそう思った。まあ、これは、これだ。
22時にベッドに入り、大江健三郎『河馬に噛まれる』を読みながら就寝。koboは読みやすいが、そのまま寝落ちをしてきちんと寝れているのだろうか。