なかなか天気の良い日曜日。10時にアヤさんがうちに来る。聖子ちゃんがシナモンバンズを焼いてくれたので一緒に朝食を食べる。聖子ちゃんのシナモンバンズを久しぶりに食べたが、さらに一段とパワーアップしたように思うけれど、きっと聖子ちゃんのことだから毎回少しずつレシピを変えていて、同じものを二度と作らないのだろう。だから、今日の味を再現するということはない。久しぶりに会ったこともあり、また仕事っぽいことまで話していたので、結局14時半過ぎまで話していて、穏やかな日曜日の昼だった。その後、聖子ちゃんはデッドラインの近い仕事を終えるために机に向かったが、ぼくはどうも眠くて仕方ないので昼寝をして、18時ごろに起きて買い物へ行く。焦ることややることはあるけれど、それでも諦めて寝てしまったりパソコンを開かなかったりする日も大切だなと思いたい。
夕食後、Wim Wenders『Perfect Days』を鑑賞。今年は、会う日と会う人、日本人だというと、みんなこぞってこの映画と安藤忠雄の話をするもんだから、とてもイライラしていたが、そのまま見ないでイライラしていても仕方ない、と思いつつyoutubeでレンタルして鑑賞。映画を観ている途中から、最近ぼくが持っている「ある感覚から打破できない」というような自分自身をふわっと纏っているモラトリアムとでも言い換えられる空気がこの映画によってさらに膨張したような気がして少し落ち込んだ。それに加えるように、鑑賞する前からトレーラーや人から話を聞く中でぼく自身がかなり警戒していた高齢労働者や独身生活の賛美、特に高齢者が「自由」に悠々自適に生きることを美化するような構図が美化された形で表現されていて、日本の社会の不透明さを表しているようで嫌気がさしてしまった。「自由」というのはそんな意味ではないはずだというのがぼくの意見だ。ぼくたちは、自由の意味を取り違えはしないだろうか。もちろん、このような生活スタイルは、日本に昔からある美意識ではあるとは思うが、同時に、これが大企業や何かの国の政策やプロジェクトによって称賛される構図はどうにも気に食わない。さらにエンディングに流れる協賛をみていると、大手企業がお金になりそうなことに同じように飛びついているように見えて悲しくなり、いや、大手企業が中小企業のように手を取り合ってお金を生もうとしている姿に日本という国の国力低下を見るようでどうも悲しくなったというべきか。映像に映り込むコンビニの食事や、社会性のない親、しつけのない子供、意固地になった老人、自然に振る舞うが故のホームレスという生き方、今日本が持っている閉鎖感をただ映しているというように感じた。社会の歪みや個々人の忍耐へ背を向ける姿が、孤独を生んでいるというようにも捉えられたし、孤独であるが故に社会との隙間を埋めるような存在として子供に笑顔を浮かべられたり、ガールズバーの女の子から気に入られたりするという
意固地で孤独でその瞬間を生きるおじさんを勇気づける側面を持った映画でいいのだろうかとも感じた。現代の日本が抱えているだろう社会問題との関係が見えてしまい、ぼくはこの映画をやはり素直に良い映画だとは言えないし言いたくないと思った。観ながらなんとなくWalker Evansが、労働者を撮影した背景にはルーズベルトのニューディール政策を正当化するための写真であったことを思い出した。それは労働を賛美するだけのものではなく、有権者たちに政策を認めさせるものであった。そういう側面では、Walker Evansの写真がきちんと写真の価値を持っているのかなとも思えた。まだいうならば、もちろん自分自身がこうなりかねないという同族嫌悪のようなものを感じたことも、強く否定したくなる一つの要因でもあるのだろう。笑み、悲しみなどの表情が妙に大袈裟であるし、それを見せないまでにも想像できるだけの物語が語られていて、鑑賞者の余白のない、映画だなと思い、映画ではなくこれは映像広告だと思った。役所広司演じる平山の多くを話さない男らしい時々声を出した時の声の掠れ具合は素晴らしかった。
夕食後、Wim Wenders『Perfect Days』を鑑賞。今年は、会う日と会う人、日本人だというと、みんなこぞってこの映画と安藤忠雄の話をするもんだから、とてもイライラしていたが、そのまま見ないでイライラしていても仕方ない、と思いつつyoutubeでレンタルして鑑賞。映画を観ている途中から、最近ぼくが持っている「ある感覚から打破できない」というような自分自身をふわっと纏っているモラトリアムとでも言い換えられる空気がこの映画によってさらに膨張したような気がして少し落ち込んだ。それに加えるように、鑑賞する前からトレーラーや人から話を聞く中でぼく自身がかなり警戒していた高齢労働者や独身生活の賛美、特に高齢者が「自由」に悠々自適に生きることを美化するような構図が美化された形で表現されていて、日本の社会の不透明さを表しているようで嫌気がさしてしまった。「自由」というのはそんな意味ではないはずだというのがぼくの意見だ。ぼくたちは、自由の意味を取り違えはしないだろうか。もちろん、このような生活スタイルは、日本に昔からある美意識ではあるとは思うが、同時に、これが大企業や何かの国の政策やプロジェクトによって称賛される構図はどうにも気に食わない。さらにエンディングに流れる協賛をみていると、大手企業がお金になりそうなことに同じように飛びついているように見えて悲しくなり、いや、大手企業が中小企業のように手を取り合ってお金を生もうとしている姿に日本という国の国力低下を見るようでどうも悲しくなったというべきか。映像に映り込むコンビニの食事や、社会性のない親、しつけのない子供、意固地になった老人、自然に振る舞うが故のホームレスという生き方、今日本が持っている閉鎖感をただ映しているというように感じた。社会の歪みや個々人の忍耐へ背を向ける姿が、孤独を生んでいるというようにも捉えられたし、孤独であるが故に社会との隙間を埋めるような存在として子供に笑顔を浮かべられたり、ガールズバーの女の子から気に入られたりするという
意固地で孤独でその瞬間を生きるおじさんを勇気づける側面を持った映画でいいのだろうかとも感じた。現代の日本が抱えているだろう社会問題との関係が見えてしまい、ぼくはこの映画をやはり素直に良い映画だとは言えないし言いたくないと思った。観ながらなんとなくWalker Evansが、労働者を撮影した背景にはルーズベルトのニューディール政策を正当化するための写真であったことを思い出した。それは労働を賛美するだけのものではなく、有権者たちに政策を認めさせるものであった。そういう側面では、Walker Evansの写真がきちんと写真の価値を持っているのかなとも思えた。まだいうならば、もちろん自分自身がこうなりかねないという同族嫌悪のようなものを感じたことも、強く否定したくなる一つの要因でもあるのだろう。笑み、悲しみなどの表情が妙に大袈裟であるし、それを見せないまでにも想像できるだけの物語が語られていて、鑑賞者の余白のない、映画だなと思い、映画ではなくこれは映像広告だと思った。役所広司演じる平山の多くを話さない男らしい時々声を出した時の声の掠れ具合は素晴らしかった。
自分の書き記したことから、逃げるようで申し訳ないが、とりあえず、今はこう思っているのだと言っておきたい。ぼくは個人的な感情や今自分がいる現状、抱えている悩みを大元にしか何かを見ることができない。だから、自分が変わればものの見え方も大きく変わると思っている。心が大きく、豊かに真っ当に生きれるようになればこの映画の新たな側面も再発見できるのかもしれない。