コーヒーを淹れるとひんやりとする部屋に香りが充満して、一気に幸せな気持ちになった。冬の空気はツンと張り詰めていて、香りの流れを邪魔しないようである。
日本に帰る前くらいから、なぜ世界中でコーヒーが飲まれ、世界中にコーヒー屋が乱立しているのか、不思議な気持ちになっていた。コーヒーが世界を均一化しているような気がしてならなかった。そんなことを思う日々の中でも、家でコーヒーを淹れている。冬の空気に充満するコーヒーの香りは感情的である、それは旅の道中にあった笑えるトラブルの雰囲気さえを蘇らせて感じさせるし、日常にありながら、不要とさえ思えるほどに感情を蘇らせる。不要な感情など存在するのだろうか。コーヒーを飲みたくないと思いながら、京都で一保堂へ行った。2024年の一保堂の茶房は、閉店時間30分前でも満席で、数人が席を待っている。15年前に持っていたがらんとした暇そうな雰囲気はない。よく母と行っては、テーブルの上に置かれたポットから延々とお湯を淹れ続け、お茶を飲み続けたような空間はもうすでに存在せず、ただただそこで行われるすべてのことに羨望の眼差しを向けた人々か、あたかも慣れていますよと下調べしたメニューを手慣れた手つきで注文するぎこちない人々ばかりだった。社会は非日常のような場所が増え続けているが、一保堂も悲しいけれど非日常の場所と化しているように感じた。もちろん文句を言う自分自身も気づけばその一人であることには紛れもなく、以前と同じように薄茶をオーダーしてみたが、(それは慣れた手つきだったはずだ)自分の慣れた手つきさえも嫌味に感じてしまうほどにその環境は崩れている。ぼくのせいではない、全てが少しずつずれ始めていて、うまく噛み合わないのである。丁寧すぎる接客でお馴染みの一保堂においてさえも「こちらは京都限定のメニューでございます」という一言によって、その丁寧すぎる接客が故に初めての方に向けた言葉と同意義をなし、不思議なまでに気分が萎えてしまう。そんなことを言われないほどに通うべきなのか、それともそれを気にしないべきなのか、もしくは大きな心で社会を捉えるべきなのか、大きな心で社会を受け止めたいと思っていても、目を瞑る以外の方法はそこには存在しないような気がした。社会の変化を受け入れ、それを楽しむだけの心の余裕をどこかに持ち合わせていたいもんだ。15年前にあった雰囲気をそのまま維持することなんて21世紀にはありえないのだろう。Cafe de floreでさえも、ただの観光のカフェである。観光名所として「どんな風に文化を継承するか」ということである。そこに生活の延長にカフェは存在するのだろうか。日本には、独自の文化として引き継がれる茶の文化があってよかったなとつくづく思う。それでこそ日本でのコーヒーという文化の価値が際立つのだ。マイさんとBrunoからAlain Ducasseのタブレットというチョコレートをもらった。それは、ぼくの勘違いだということは置いておいたとしてもAlain Ducasseには感激した。紐のついたミニバッグ型の紙袋に入ったタブレット型のチョコレートには2020年代の雰囲気を感じさせたし、チョコレートはアーモンドがキャラメライゼされ、タブレットサイズのチョコレートに埋まっている。その見た目はまさに13000年前の地層から掘り起こされた化石のようで、見た目にも興味を惹かれたのだが、その佇まいが持ちあわせるプリミティブさに相反するように、チョコレートは繊細な味わいと鋭いテクスチャの楽しみを持ち合わせていた。日本滞在を経て、パリから帰ったぼくには本当にタイミングの良いギフトだった。ただ美味しいものや美しいものではなく、知性と品位があり優雅でユーモアのあるものを追い求めていきたいと思っていたから、このチョコレートはまさに、派手でなく日常的で無意識下に作り手が持ち合わせる性格を形作るようなものであった。Alain Ducasseのチョコレート自体は、日常的ではないのかもしれない。夕方、ランニング。17時半に走り出し、歩いたり走ったりを繰り返し1時間ほど。もう日は暮れていて、街灯も多くはないので思っている以上に暗い。ライトの付いたジャケットを着ている人をちらほらと見かけた。
日本に帰る前くらいから、なぜ世界中でコーヒーが飲まれ、世界中にコーヒー屋が乱立しているのか、不思議な気持ちになっていた。コーヒーが世界を均一化しているような気がしてならなかった。そんなことを思う日々の中でも、家でコーヒーを淹れている。冬の空気に充満するコーヒーの香りは感情的である、それは旅の道中にあった笑えるトラブルの雰囲気さえを蘇らせて感じさせるし、日常にありながら、不要とさえ思えるほどに感情を蘇らせる。不要な感情など存在するのだろうか。コーヒーを飲みたくないと思いながら、京都で一保堂へ行った。2024年の一保堂の茶房は、閉店時間30分前でも満席で、数人が席を待っている。15年前に持っていたがらんとした暇そうな雰囲気はない。よく母と行っては、テーブルの上に置かれたポットから延々とお湯を淹れ続け、お茶を飲み続けたような空間はもうすでに存在せず、ただただそこで行われるすべてのことに羨望の眼差しを向けた人々か、あたかも慣れていますよと下調べしたメニューを手慣れた手つきで注文するぎこちない人々ばかりだった。社会は非日常のような場所が増え続けているが、一保堂も悲しいけれど非日常の場所と化しているように感じた。もちろん文句を言う自分自身も気づけばその一人であることには紛れもなく、以前と同じように薄茶をオーダーしてみたが、(それは慣れた手つきだったはずだ)自分の慣れた手つきさえも嫌味に感じてしまうほどにその環境は崩れている。ぼくのせいではない、全てが少しずつずれ始めていて、うまく噛み合わないのである。丁寧すぎる接客でお馴染みの一保堂においてさえも「こちらは京都限定のメニューでございます」という一言によって、その丁寧すぎる接客が故に初めての方に向けた言葉と同意義をなし、不思議なまでに気分が萎えてしまう。そんなことを言われないほどに通うべきなのか、それともそれを気にしないべきなのか、もしくは大きな心で社会を捉えるべきなのか、大きな心で社会を受け止めたいと思っていても、目を瞑る以外の方法はそこには存在しないような気がした。社会の変化を受け入れ、それを楽しむだけの心の余裕をどこかに持ち合わせていたいもんだ。15年前にあった雰囲気をそのまま維持することなんて21世紀にはありえないのだろう。Cafe de floreでさえも、ただの観光のカフェである。観光名所として「どんな風に文化を継承するか」ということである。そこに生活の延長にカフェは存在するのだろうか。日本には、独自の文化として引き継がれる茶の文化があってよかったなとつくづく思う。それでこそ日本でのコーヒーという文化の価値が際立つのだ。マイさんとBrunoからAlain Ducasseのタブレットというチョコレートをもらった。それは、ぼくの勘違いだということは置いておいたとしてもAlain Ducasseには感激した。紐のついたミニバッグ型の紙袋に入ったタブレット型のチョコレートには2020年代の雰囲気を感じさせたし、チョコレートはアーモンドがキャラメライゼされ、タブレットサイズのチョコレートに埋まっている。その見た目はまさに13000年前の地層から掘り起こされた化石のようで、見た目にも興味を惹かれたのだが、その佇まいが持ちあわせるプリミティブさに相反するように、チョコレートは繊細な味わいと鋭いテクスチャの楽しみを持ち合わせていた。日本滞在を経て、パリから帰ったぼくには本当にタイミングの良いギフトだった。ただ美味しいものや美しいものではなく、知性と品位があり優雅でユーモアのあるものを追い求めていきたいと思っていたから、このチョコレートはまさに、派手でなく日常的で無意識下に作り手が持ち合わせる性格を形作るようなものであった。Alain Ducasseのチョコレート自体は、日常的ではないのかもしれない。夕方、ランニング。17時半に走り出し、歩いたり走ったりを繰り返し1時間ほど。もう日は暮れていて、街灯も多くはないので思っている以上に暗い。ライトの付いたジャケットを着ている人をちらほらと見かけた。