2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.9.11

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2024.9.11

昨日の話に付随した問いがまた生まれた。
「お金や時間をかけてでもその時に妥協をせずに納得し周りに遠慮をせずに選んだものや作ったものは、時代を経ても自分の感覚と隔離することはないだろうか。」

やりたいことばかりがあり、やりたいことをしている状態を美徳とするような時代においては、めんどくさいことややりたくないことは後回しにされる。例えば、水回りをジフでピカピカにすることだって、窓枠の縁を水拭きすることだって、洗濯をした後にアイロンがけすることだってある家庭においてはやらなければいけないことであったかもしれない。例えば、実家の隣人と話すことだって、過去には嫌でもやることだった、嫌とすら思わなかった。だが、やりたいことをすることが美徳とされる時代に、実家の隣人にあっても話さない人は多いだろう。家で料理をレストランのように振る舞うが、農家のように手を汚したり黒くはなりたくないのだろう。別に一人の人間が全てをしないといけないと言いたいわけではなく、物事には背景と違う側面があることを認識し、それは誰かがやっているということなのだ。夏にビーチがあるわけではなく、冬にも同様にビーチが存在する。イタリアもギリシャも夏にしかないわけではなく、他の季節も同様に生活がある。ある公衆トイレも常に綺麗なわけではなく、掃除してくれる人が存在する。ぼくは、やりたいことばかりやっているような人間にはなりたくないし、そういう人たちはショートカットしていると感じてしまう。寡黙に自分のやりたいことをする時間を見つけながら、やりたくないことにも文句を言わずに進んでやっているような人間にぼくは憧れを抱く。