2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.9.10

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2024.9.10

 全てのものが少しずつ自分の感覚から離れて行っているような感覚がある。
その時々の気分の高揚に踊らされるように買った洋服を場所も気分も変わったのにそのまま着ているとなんだか今の気分とは全く合わないし、お得だからと買ってしまってそのまま気に入って着ているジャケットは自分の他の服とは全く合わない特別なジャケットとなってしまっている。相手に合わせて動けない意固地な男のようだ。
ティシャツだって、よれたまま着ていると気づいた頃には持っている全てのTシャツがよれていたりする。サイズ感を曖昧なままに買ってしまったシャツは気に入っているパンツとのサイズのバランスが微妙にアンバランスだし、
あの時に気分に任せて切ってしまった髪型は、もう自分の理想的なものからは大きくかけ離れてしまっている。
人にそそのかされて買ったメガネは、その時は気に入っていたが自分のスタイルとの隔離は激しく、外にはかけていかない。自転車のチェーンが錆びてもそのまま乗っていたりと、ドアが鳴き始めてもそれほど気にならない。床を水拭きしなければ、靴下の穴が空いていてもそれくらいは大丈夫だと思ってしまう。
人間というのはある程度いろいろなものに馴染めてしまうだけの柔らかさと、ネガディブに言えば意思の弱さを持ち合わせている。よれたティシャツは、ヨレていれもそれほど気にならないという風な感覚を自分自身に植え付けるし、その首元のヨレは、髪型のアンバランスをも許容し始めるだろう。そのような状況でふと昔から知っていて、1-2年ぶりに友人たちに再会すると、その人の姿からではなく、その人を通じて自分自身がいかに自分の感覚からかけ離れた人間になっているのかに鈍器で叩かれたかのような衝撃と共に気付かされる。
全てのものが少しずつ自分の感覚とかけ離れる。テーブルと椅子は少し高さがアンバランスだし、一時的にと拾ってきた洋服ラックはどうも自分の生活には馴染まない。そもそもオランダにいる自分でさえどうも自分自身とかけ離れている気さえしている。作品を見ていても心踊るものになかなか出会えないが、イタリアやフランス、もう少し行ってスペインやポルトガル、南欧の作品は、そうだよなと心の底から納得させられる。そんなものにさえ囲まれずに、誰に頼まれたわけでも、しないといけないわけでもないような日々を過ごしていることは健康的なのだろうか。
Harryに会った時も自分の服装がいかにプロダクトっぽいか既製品であるかを思い知らされるようだったし、そこに人のクリエイションが存在しようとも、自分自身のものの選び方を見ると、いかにも自分は洋服屋やオンラインで自分が欲しかったから買ったというだけのものしか着ていないような気がした。そこには作り手の感情や、販売者の服を着る物への配慮とかそういうものが欠落しているように思えてならない。
ということで、そんなことを考えていると、気分が乗らずなかなか仕事に向かうことができない。気分が乗らないことには仕事も何もできないというのは昔から変わらず自分らしいなと思って笑ってしまうが、少々自分の気分をコントロールする方法を考えたいと思う。