2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.8.6

Translate

2024.8.6

ステラとドッグパークに行き、隣にあるティールームでランチ。自転車で25分ほど行ったところに、柵のあるドッグパークがあることを知らなかったが、緑に囲まれ、車の音もなく、手入れもされていて空気の抜ける気持ちのいい場所だった。その芝生に寝転がり、夏らしい太陽の陽射しを全身で浴びながら、今日も青空であることがどれだけ美しいことなのかと考えた。79年前の今日、午前8時15分、アメリカ合衆国によって広島に原子爆弾「リトルボーイ」が投下された。その日も青空だったのだ。オランダのカフェで隣り合ったおばさんと話をしていると、「日本は戦争では酷いことをしたけれど、素晴らしい伝統と文化のある国だね」と言われたことがある。そのようにある世界では認識されているのだなと思った。もちろん、ぼくたちは被爆国であり、敗戦国である。同時に戦時には、隣国に大きな悲しみをもたらした国であるということも忘れてはいけない、そして自分がいかに偏った思考に傾きかけているのか、被害者意識が強いことも認識した。唯一の被爆国であることは、未来への願いをきちんと伝える存在でもあるはずなのだ。悲しいことに、今でも世界にはいろいろな戦争や問題が起きている。ぼくたちはこの世の中で、様々な出来事に理解を持ち、容認し、時に強く反発しながら豊かな広がりと希望を持って生きているだろうか。願うだけではなく行動しているだろうか、そもそも願うということは行動に入るのだろうか。自分の信念に沿わないことは「しない」という選択も一つの行動であるとすれば、自分の信じる姿に向かって自分自身は進んでいるだろうか。戦争にも原子力で脅す行為にも強く反対だ。その形の争い方では人類は何も生まない。

以下に、「平和への誓い」引用する。
平和への誓い目を閉じて想像してください。
緑豊かで美しいまち。
人でにぎわう商店街。
まちにあふれるたくさんの笑顔。
79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
「ドーン!」という鼓膜が破れるほどの大きな音。
立ち昇る黒味がかった朱色の雲。
人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。
ある被爆者は言います。
あの時の広島は「地獄」だったと。
原子爆弾は、色鮮やかな日常を奪い、広島を灰色の世界へと変えてしまったのです。
被爆者である私の曾祖母は、当時の様子を語ろうとはしませんでした。
言葉にすることさえつらく悲しい記憶は、79年経った今でも多くの被爆者を苦しめ続けています。
今もなお、世界では戦争が続いています。
79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです。
本当にこのままでよいのでしょうか。
願うだけでは、平和はおとずれません。
色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。
一人一人が相手の話をよく聞くこと。
「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。
仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。
私たちにもできる平和への一歩です。
さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。
平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。
そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。
世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。
令和6年(2024年)86 こども代表 広島市立祇園小学校6 加藤晶 広島市立八幡東小学校6 石丸優斗