2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.8.7

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2024.8.7

夕方、聖子ちゃんとステラとビーチへ。ビーチクラブ(オランダでは海の家のことをビーチクラブと呼ぶらしい)で、ドリンク。聖子ちゃんはロゼ、ぼくはジンジャービア。日本の海の家と違って、水に入って戻ってくるというようなものではなく、ビーチに来るような格好というよりは普段着で来ている人も多い。そもそもオランダのビーチは、一般的なヨーロッパで見られる光景ではあるが、人々が水に入って過ごすというようなビーチの過ごし方ではなく、水着もしくは全裸で寝転がり太陽の陽射しを浴びながら過ごしている。
数日前に、夕陽が生活の全てを司るというような話をしたので、どんどんと気になり、聖子ちゃんを誘い出して夕陽を見に来たのだが、こんな日に限って水平線の上に浮かぶ雲が分厚く、なかなか太陽が顔を出さない。そして、風も強い。人を誘ったのに、自分が思っていたのと違うということはよくあることで、プレゼンテーションというのは準備とポイントを理解していないと全く違うものになるということを実感。風の強く雲の多い海にはそれの魅力を感じるが、しかしはぼくが言いたかったものとは、違うものとなった。

バートランド・ラッセルの言葉
「死の恐怖」を征服するもっともよい方法は、(少なくとも私にはそう思われるのだが)諸君の関心を次第に広汎かつ非個人的にしていって、ついには自我の壁が少しずつ縮小して、諸君の生命が次第に宇宙の生命に没入するようにすることである。個人的人間存在は、河のようなものであろう。最初は小さく、狭い土手の間を流れ、激しい勢いで丸石をよぎり、滝を越えて進む。次第に河幅は広がり、土手は後退して水はしだいに静かに流れるようになり、ついにはいつのまにか海の中に没入して、苦痛もなくその個人的存在を失う。老年になってこのように人生を見られる人は、彼の気にかけはぐくむ事物が存在し続けるのだから、死の恐怖に苦しまないだろう。そして生命力の減退とともに物憂さが増すならば、休息の考えは退けるべきものではないだろう。私は、他人が私のもはやできないことをやりつつあるのを知り、可能な限りのことはやったという考えに満足して、仕事をしながら死にたいものである。(Portraits from Memory and Other Essays, 1956 より)