2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.8.29

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2024.8.29

再度、Nanni Moretti『Dear Diary』鑑賞。イタリアの壁のシリーズにタイトルをつけているが、なかなか作品のタイトルが決まらない。頭を動かすよりも身体を動かす方が新しいアイデアが思い浮かぶのだろう、ということで自転車で街を徘徊する。ベスパでローマの街を徘徊したNanni Morettiのように。
今朝、辻村さんと「いただいたお誘いを断るともう二度とお声がかからない」という話をした。この話が正しいかという話ではなく、なんとなく強迫観念と閉鎖的な世界がそこにあるような気がして腑に落ちないので、色々と考えを巡らせていた。ぼくの解釈によると、他人から誘われたことにポジティブな答えが出来なれば、自分のペースを大切にしている人なのだろうと思われる傾向にあり、誘いずらい、誘ってもこない、誘っても断られるんじゃないか、という印象になっていくという話で、どれだけ気が乗らない誘いだったとしいても「ちょうどそちらに行く予定でしたので、参加させていただきます!」と快く参加していると、楽しいことや自分が興味あることにも誘われるようになるということだった。ぼくは、お酒も飲まないので、学生の頃から誘いを断ることに慣れすぎた結果、ノリの悪い自分中心の人間となりiPhoneを数日放置しても誰からもメッセージが全くきていないということもよくある。学生時代は、そんな人間への配慮も多く、連れ出してくれるような信頼のおける友人もいたが、仕事の関係になるとそんな心に余裕がある(もしくはお節介な人)はどんどんといなくなった。海外での生活では誰にも気を遣われることもなく、遠慮なく誘いも受けるような日々であったので、そんなことを気にしたこともなかったし、今日までそんな風に社会が成り立っているという側面もあまり見えていなかった。いや、見えていたが言語化や他人からの言葉を受けてこなかった。辻村さんの本意は何だったのかは知らないし、むしろ疲れや苛立ちによって出てきた悪意のあるぼくへの本心だったのか、ただの時間潰しだったのか、おちょくられていたのかはわからない。彼の100つの無駄話の中に突然ぽっと出てくる1つの貴重な真面目な話は身になることは興味深く、いつも自分の人生を考えさせられるような気にさせるのだが、この会話の本質的な側面をぼくの思考を持って解釈したことだけを話すと、この話に半分は納得しながらも、もう半分は全く納得できずにいた。ぼくの解釈では、気分よくポジティブにいつだって誘いを断らずに参加してくれるような頼りがいのある信頼できる人間で、声をかけたいと思われる人になりましょう、そうすれば仕事もたくさん来ますし、リズムが出て人生は順風満帆になりますよということが半分、それに関しては一点の曇りなく納得できる。しかし、もう半分は、「断ってばかりいるといつしか誰からも誘われなくなり、行きたいことにも参加できず、仕事も来ませんよ」というのは、誘われる側だけの問題ではなく誘う側の度胸や気持ちの問題であって、本当にその人を誘いたい、もしくはその人に会いたいと思うのであれば、断られる可能性があっても誘うのではないかと思うのだが、どうだろうか。みんながどんぐりの背比べで同じような仕事っぷりをしていれば誘って断れない人に声をかけたいだろうが、その人にしかできないことを持っているのであれば、そして、その人にどうしても頼みたいという熱意があれば、断られようが誘うのではないだろうか。ぼくが友人と会う時、誰かに何かを頼むときは、作家と一緒に何かをするときは、そんな風に考えているなと思った。断られても、どんな風にアプローチしたらいいのかを考えている。頑固がいいという話でもないし、誘われたら全てに参加している人が悪いという話でもない。そして、相性も存在する。誘い方がとてつもなく雑な人もいれば、タイミングが非常に悪い人もいる。
ぼくが出会ってきてぼくもあんな風になりたいと憧れている人たちは、ソーシャルだろうかとふと思い出してみた。みんなメディア露出は少ないし、日常生活に足がついた生活を送り、アーティストだろうが一般人だろうが、カフェ店員だろうが奢らず、フラットな関係で、日々の中で起きる出来事に対してある種の即物性さえをも持ち合わせている。すぐに頭に浮かび上がる彼らは、地理的に都会から離れていようとも、自分のするべき仕事を続けている人たちだ。彼らが何かを断っているかは知らない、誘いがこなくなっているかは知らない、もしかすると全ての誘いにポジティブな返事をして、出向いているかもしれない。しかし、ぼくが誘った数回は断られたのを覚えている。それでも、彼らからお誘いを受けることさえもあり、突然の訪問やお誘いをもらうこともあった、断ったからと言って人間関係が崩れるわけではなかった。それ以上に、自分が続けるべきことを続けていないことによって信頼を失ってしまうのではないかと思ってしまう。継続しているということは、自分自身の存在と過去とを肯定することのようにも思う。自分にとって自分の人生を全うするための正しい答えは、自分で見つけるしかない。今日の辻村さんとの話での学びは、ぼく自身に全くと言っていいほどに比較対象を超越するほどの特殊性と信頼が足りないということだろう。