2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.8.2

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2024.8.2

ついに、棚とステラの家を完成させた。パテ埋めをして、色を塗り、乾かし、さらに必要な部分にパテ埋めをして、色を重ねたのだが、その方法よりも、下地を塗ってから塗装するのがいいとKazuくんから教えてもらった。次はそうしようと思う、実際に作っている人に教えてもらうのが近道だ。
今回の棚制作がそうであったとは思わないが、無知は危険であるが、しかし学ぶという過程においては「無知」であることと「学びの意識を持つこと」は時にルールや仕組みの盲点をつき新たな方法や側面、ユニークさを生み出すなと改めて感じた。「無知」を基とした行動には、基本的には結果や目標のみが設定されており、そこに付随する「学ぶ」という過程を通じて骨組みが組み立てられる。例えば家具を作る上で話すと、結果や目標のみが設定されている間は、制作過程における「段階」の重要性などを知る由もなく、「学び」は自分の目的達成のための一つの要素でしかなく、必要があれば学ぶ、問題が立ちはだかった際に学ぶ、完成によって新たに学ぶということで充分なのである。「学ぶ」ことは決して目標になってはいけないのだ。
違う例えをするならば、クロワッサンを作りたいと思うのであれば極端にいうとバゲットやカンパーニュの作り方を知る必要はなく、まずは自分自身が美味しいクロワッサンを知る必要があり、自分にとって「美味しい」とはどのような要素で構成されているのかを知る必要があると言うことである。そして、その目的を知ることも大事だろう。なぜ作るのか、誰とどこで食べるのか、そもそも誰に食べてもらいたいのか、その誰かは隣に存在するのか、もしくはビジネスなのか、それから何とどう食べるのか、その先にどんな食感がいいのか、バターの香りはどうか、レイヤーの数、表面のカリカリ、ミルクっぽいものか、などが付随している。
作品制作も同じではないだろうか。まず何を作りたいのか。そして自分自身にとっての「美とは何か」を探究すること。その上に目的として、誰にどう見せたいのか、そもそも見せたい人はいるのか、その基本的な要素の上に自分の作風、スタイルなどが乗ってくるように思う。
ぼくにとっては作品を作ることは、まずは自分の隣にいる人々、愛する人や家族、信頼できる友人に自分自身を見せるような親密なものである。さらにその輪は拡大していくことを願っている。人に見せることは、とても恥ずかしく脆いが、その先には大きな幸せや包まれたような心が満ち溢れるような気持ちや高揚感を得ることもある。
作品を、例えば写真や文章で話をすると、技術的に上手なもの、学びの上にのみ成立するようなものを作ろうなんてことは全く考えたことがない、ぼくの手の垢や動きの癖、リズムや間合いなどが染み込んだような作品であれば、それはぼく自身にとっては「美とは何か」をきちんと探究しながら制作できたと少しくらいは言えるかもしれない。