2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.7.24

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2024.7.24

天気がいいせいか、みんな元気である。PompernikkelのDaanもVeraも名前を知らない女の子もみんな機嫌が良さそうに店に入ったぼくの顔を見るなり「Heeey!」と勢いのいい挨拶をしてくれた。
国の経済をインバウンドに依存し、観光大国を促進する事業を進める。その国が進む先には極右思想が待っているのではないか。イタリアであれ、フランスであれ極右に進むのだ。特にパリのように伝統的にリベラルな土地がない限り、フランスは極右に向かってしまっていたのではないだろうか。日本もいい加減インバウンドに依存した事業計画をやめた方がいいと思う。大体において気分や体調が優れないときには、悲観的な物事の考え方や、辛辣な意見を言いたくなってしまうし、今日は朝からそんなことを考えて頭が熱くなっていた。しかし、ある雑誌の敏腕編集長とメッセージをしていると、彼がどう思っているかは別として、熱くなる頭を冷ましてくれるような言葉が送られてきた。良いも悪いも、必要も不要も、誰が判断して何によって判断されるのだろうか、その時代の人々が必要としているうちは必要なものなのだろうか。文化も街も変わり続けることで成長しているし、たとえばグローバリゼーションやAI文化の発展のようなもう誰にも止められないものというものが世の中にはいくつか存在していて、ぼくはそれらのある側面を見たときに過去の美化された文化の奴隷となり、未来を杞憂してしまうのだが、変化が起きることは良いことなのだろう。決して反グローバリゼーションを訴えたいわけではなく、ぼくはグローバリゼーションが産み出した甘汁を享受していると自負している。移民文化にも特に悲観しているわけではないが、何よりも現状ではそれらと同義とも言える世界中の街並みや文化の均一化には嫌気を差している。ものごとの良し悪しは時間によってしか判断できないのだろうか。ぼくに何ができるかというと、文句を言わずに、「自分はそれはしない、これをする」という決心と行動でしか解決できないような気もする。自分以外に変えられるものなんていうものは存在するのだろうか、いや自分自身を律して生きることが最善策なのだろう。