2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.7.17

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2024.7.17

朝、Pompernikkelへ行き、パンオショコラとカプチーノ。聖子ちゃんはクロワッサンとカプチーノ。かなり久しぶりにコーヒーを飲んだように思う。1週間ぶりくらいだろうか。最後に飲んだのは、Toklasのカフェだったと思うので、おそらく1週間ぶりのコーヒーだ。避けていると、久しぶりに飲む際にどうしても身体が強張ってしまう。パンを食べるのも、1週間ぶりである。パンもコーヒーも飲めるようになった、飲もうと思えるようになったというのは進歩だなと思う。家に帰り、日記を書いたりメールの返事をしたりして、昼にリゾットを食べて、カモミールティを飲んだ。聖子ちゃんのご飯を食べるのがもういつぶりかと思うほどで、聖子ちゃんの料理にかなり安心したと同時に、今日の青空が広がる天気の良さに心が異常に穏やかになる。iphoneやパソコンなどが自分の家の中で心を穏やかにさせるには不要だと感じるほどに心がほぐれていくことを心で感じた。Gammaへ行き、木材とペイントするカラーの調達。木材は、サイズがわかったので、また明日買いに来ることにする。道中、今月の初めに長期のオーバーホールから帰ってきたLeica M6で数枚シャッターを押す。やはりLeica M6がない自分の人生というのは、塩の入っていないお湯でパスタを茹でるようなことに近いなと感じた。ぼくはLeica M6というカメラには割と固執しているとは思っていたけれど、大枠でカメラにかなり固執しているタイプではないと思っていたのだが、ない期間が長いと、どうも心に虚無感のような不快ではないが、なんだか物足りない、そんな心がソワソワする感覚が漂っていた。オーバーホールから戻ってきた時の気持ちは愛する人との再会のようであったし、自分がそんなにこのカメラに自分のパーソナリティを投影しているとは思っていなかった。新しく買ったRicoh GRiiiではどうもまだ自分の身体から拡張したカメラという気にはなれない。カメラに固執しているというよりはLeica M6を自分の身体を拡張するものとして捉えられているというのは、ぼくが求めていた「もの」の姿である。ものが人間を覆い被さり、人間自身に備わっている能力を邪魔するようなものではなく、人間と「もの」が共存し、「もの」がきちんと人間の相方となり、「もの」にとっても人間の存在が不可欠であるそんなあり方に常に憧れている。
19時ごろステラの散歩でキャナル沿いのオフリーシュエリアに行くと、天気がいいこともあってか犬連れではない路上生活者らしき男性や釣りをする青年らが各々にビールを飲んだり、マリファナを吸ったりしている。そのうちの一人の路上生活者は、「君の犬が見ているのはいくつかの種類の鳥の巣で、高い木の上にあるものと低い木の中にあるのでは違う種類の鳥のもので、そこに早く飛んでいる鳥ともまた違うから、ここに来ると君の犬はとても楽しいはずだよ」と教えてくれた。ステラは、1歳まで猟犬として森の中で飼われていたので、どうしても、高い木の上に巣を作る小さい黒い鳥、低い木の茂みの中に巣を作るスズメのような小さい鳥、カナルに浮かぶカモメにも気が狂うほどに反応する。ロンドンから帰ってきてから、新たに低い木の茂みの中に顔を突っ込むようになったもんだから、何かと思っていたが、スズメの巣があるのか。しかし、路上生活者はぼくたちのような箱の中に住む人間よりも耳がいいのか、勘が鋭いのか、街を見ているのか、細かいことに気付きが多い。どんな理由や人生を抱えて路上生活しているかというのは別にして、路上では人間が本来持っている能力というものを取り戻せるような感覚がある。夜、Nanni MorettiPALOMBELLA ROSSA』を鑑賞。