2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.7.15

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2024.7.15

Emanuele Coccia「Philosophy of the Home」を読み進める。家の整理。
新しいシリーズを作っているので、編集作業を進める。何かが直接的に物事を示唆するような作品ではなく、複合的なものの見方ができ、毎度発見のあるような作品を作りたい。決して大作である必要もなければ、1枚だからダメだというわけでもない。
夜、聖子ちゃんと今Cairo Apartmentで制作している本について言い合いになる。作家とコミットしていくとどんどんと方向性が引っ張られていくこともある。悪いことではないし、そこに面白さを感じるということもとても多いが、やはり出版社として何を目指すのか、どんな本を作っていくのか、どんな世界を目指すのかというのはとても重要だと思う。
ぼくは、本を作るにあたり、装丁やタイトルが本の内容を示唆したり、一つの導きをなるようなものであって欲しいと常に願い、観客に「こう見てください」と強制するものであってはいけないと思っている。それは序文の存在やその他の文章の存在にも同じように言えることだろう。とてもデリケートになるべきことは、強制してしまうことに対してであり、また固定してしまうことに対してである、それらは本や作品自体が持つダイナミズムと未来へとつながる時間の中でのトランスフォーメーションを失うことである。それを言葉と構造によって失ってはいけない。
ぼくにとってCairo Apartmentは写真集を出す出版社ではなく、ヴィジュアルでストーリーテリングをする出版社であり、写真だとかペインティングとか、ドローイングだとかは関係ない。過去に刊行した2タイトルに関しても、ほとんどの機会ではぼくの口からは「写真集」とは呼んでこなかった。編集や構成方法などは写真集から大きく影響を受けたものだとしても、ぼくはダイナミックな作品の見方を提示したいのだ。作家も本を作る自分たち自身もが成長する中で新しい発見があるという本を作りたいのだ。ぼくは10代、高校生から大学生にかけて意味もわからず観たり読んだりした映画や小説を観た時の印象を自分の宝のように抱き抱えていて、それが時を経て再度観た時にどんな風に変化するのかということをとても楽しみにしている。ぼくが作る本はそんなものでありたいと願っている。時間という有機物の存在を無視するかのように容赦無く過ぎ去るものにもずっしりと正面から受け止め構えているような本を作りたい。
そして、オンラインが強くなっていく時代において、大前提として、観客がまずその作家なり作者を知らないという前提でものを作り始めたいと思っている。作った本は本屋という広大な荒野に解き放たれてもなお本自身の力を持ち、鋭い眼を持ったブックハンターの手に抱えられていくことを願っている。決して、作家を知っている方々が彼彼女らのコミュニティだけで買ってくれるだけという本を作りたいと思わない。それはみんなが嫌がっているように感じる世界の閉塞感を生んでいくのではないだろうか。自費出版だからとか、出版社から刊行されるとか、ジンだからダメだとかソフトカバーだとかハードカバーだから良いという話は決してない。内容との親和性と、本としてのストーリーテリングとの関係性によって本の佇まいは出来上がるのだ。まだ体調がすぐれないので、言い合い中から耳鳴りと腹痛がひどくなった、ストレスがかかっているのだろうと思った。