2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.7.14

Translate

2024.7.14

ロンドンから帰ってきてもう4日も経ったが、まだ体調が優れない。身体全体がとても怠く、腹痛と背中から腰にかけて痙攣したような痛みがある。お腹の具合も良くない。熱があるような感覚もあるが熱は下がって36.6度ほどしかなく、平熱が36.0度のぼくにとってはとても高いわけではない。36.6度というと平熱だという人もいるだろう。毎回こうやって発熱時に思うことは、自分の平熱が低すぎることで、0.2-3度くらいは上げないと簡単に身体の不調が出てしまいそうである。いつからこんなに慢性的な身体への不安が続いているのだろうか。具体的に感じているのは、2020年くらいからだろう。しかし、精神的問題はもう既に2015年くらいから後ろからそろりそろりとぼくに忍び寄ってきていたのかもしれない。あの頃には既にぼくの背後に存在していたのかもしれないとも思えてくる。今日はやっと天気が良く、ぼくがロンドンに行っている間はデン・ハーグは天気が良かったようで、ぼくが帰ってくるとまた雨だった。逆にロンドンはぼくがフェリーで移動している間は晴れていたが、滞在中はずっと天気が悪く、最終日に晴れていた。そんなことでぼくはずっと天気の悪い日を一人で過ごしていたということになっていたので、やっと太陽の光を浴びながら過ごすことができた。
午前中は、ステラの散歩に行き、家の整理をし、Donlon Booksで買ったEmanuele Coccia「Philosophy of the Home」を読み始める。少し遅めの昼食にパクチョイのフォーを食べる。
夕方、帰国してから3日も経ったというのになかなか体調が万全に戻らないので、昨日同様に1時間弱ヨガ。ソファが届く。21時からEruo 2024ファイナル スペインvsイングランドを観戦。ケインの選手人生初優勝もsweet carolineの大熱唱も聞くことなくEuro 2024は幕を閉じた。Euro2024が開幕した頃、ぼくの中にあった興奮は気付けば少し失われていたようにも感じた。それは、10代の頃によく友人と話していたように、見るより自分がやる方が面白いという感覚があるタイミングで再び蘇ったのだろうか。途中、パリに行き、ロンドンに行ったことで自分の中の試合観戦の継続性が失われてしまい、各チームの物語が見えなくなったことも大きな原因だろうし、パリで感じた市民のLes Bluesへの熱狂や、ロンドンで感じたファンたちのThe Three Lionsへの狂気も、さらにデン・ハーグ市民たちのOranjeへの乱舞も、自国のないフットボールを見るぼくには到底到達できないものであると感じてしまったからだろう。自分がいる場所や育った場所にあるものが心の底から切り離せないものになっているのか、それらを愛すという言葉以上の愛を持って接するということをぼくはこれまでの人生においてあまり経験できずにいる。これはRobert AdamsがColoradoを撮るのと非常に似ているようにも思えてならない。愛するという言葉で片付けられないほどの繋がりがあるのではないか。
ぼくは、共働きの両親のもとで育ち、小学3年生の頃から受験勉強を始め、母親の車の送り向かいで塾に通い、時に実家のカフェで勉強をし、中高大一貫校に入学すると電車で片道1時間半もかけて学校へ通っていた。放課後は部活をして、家に帰るのは21時ごろだった。朝は650分の電車に乗って学校へ向かっていた。大学は京都市内だったが、それでも自分の実家にいることなんてあまりなかった。大学を卒業してから一時的に東京に行き、すぐに海外へ行った。そんなぼくにホームなんてものは存在するのだろうか。これまでの人生において常にぼくはホームを探しているとも言えるだろうし、何より「ここをホームとする」という強い決意を持つことがホームを持つことにもつながるのだろう。しかし、そんな心の繋がりを見出すような場所をぼくはまだ見つけられていない。