2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.5.19

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2024.5.19

自分の思考を留めておくためにここに毎日のように文章を書こうと思っているわけであるが、坂口安吾「ヨーロッパ的性格 日本人性格」を読んで、言語化できていなかった自分の中のモヤモヤとしたものをシャープな針でつっつかれるような気がして、それがニキビの膿のように一気に飛び出した。
はっきりとわかっていたことではあるが結局、自分は自分のみたいようにしか世界を見ていないし、嫌なことや気が悪いことは記録しないのである。嫌なことを嫌だと書くことはあるのだが、都合が悪いことは結局書かないのだろう。ぼくは、生身の一人の人間であり目の前で起きたことを上司に報告するのではなく、基本的には自分自身のためにここに文章を書いているので、ぼく自身が書きたくないことや、無かったことにしたいことは書かない。それが、自分の教訓になったというものでない限り書かないだろう。たとえば、カフェで見かけた女性に一目惚れをしたとする、しぐさや表情、その全てに惹かれたとしよう。トイレに立った際に追いかけて声をかけた、連絡先を教えてもらった。しかし、その事実はよっぽどないことがない限り、話さないだろうし、ここにも書かない。いや、その場合はなかなか面白いので書くなと思った。例えば、人を殴ったことは書くだろうか、それをひどく反省する文章を書くのだろう。ちょっと話がずれてきた。ぼくは結果がそうだったかということよりも現象を楽しむ、思考の巡りを楽しむので、きっとそんなことは文章に書くかもしれない。そうだ、トイレの洋式便所が汚かったので、便座に靴のまま座って和式便所のように使ったことだったらここには書かないだろう。それも書くか。
とにかく、今日坂口安吾を読んだ後に悲しくなったので、そのことを今日は書きたいと思った。
ぼくが文章を書くのは、自分のみたいようにしか世界を見ていないし、嫌なことや気が悪いことの記録をしているだけなのだ。それが、この文章の正体であって、ここに書かれることは自分の生活の全てではなく、今日生活の中で起きたことをどう自分が見たか、いやどう自分が見たいと思ったかを書いているだけなのだ。これが自分自身のための文章でありながらも、2100年の人間に残るとずっと信じるように書いているが、こんな文章は一人の偏ったものの見方でしかなく、後世の誰かの役に立つものになるとは全く思えない。真実なんてものはその瞬間にしか存在しないのである。そして、その真実を書かないことによって、記録しないことによって、共有しないことによってその時にあった真実は、未来から考えたら無かったことのようになるのである。
もう少し今日の悲しい気持ちを言語化しようと思ったが、文章を書いていると元気になってきてしまって、別に自分のみたいようにしか世界を見ていなくたって、嫌なことが気が悪いことを書き記さなくたってそれでいいし、そもそもぼくは若い頃実存主義者に強く影響を受けてきたのだから、元々そんな風にしか社会が見れないと思っている節もあるのだ。