2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.5.16

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2024.5.16

朝、フォカッチャを仕込む。昼すぎまで作業をし、食事の後日本大使館に行き、そのまま自転車で街を徘徊。 家に帰り、夕方再び谷崎潤一郎「陰翳礼讃」を読む。ぼくは、恥ずかしながら今年に入るまでこの世界的名著を読んだことがなかったのだが、青空文庫にあるということで聖子ちゃんがプリントアウトしてくれて、読んでみた。100年ほど前から日本の欧米化という会話が繰り返されているのかと悲しくなると同時に、ぼくを含めた社会は一向に日本の美というものをきちんと再考せずに、いや、再考してきたかもしれないがその価値を理解せずに100年間を過ごしてきたことを認めざるを得ない。どの国も、きっと同じだろう。時代の変化を歓迎しながらも抵抗するように文化を形成してく。しかし、先人たちが長く培ってきたものを自分のその時の欲求に任せて平気で破壊していくような人間にはなりたくないと思った。悩まずにやって仕舞えばいいんじゃないかとよく言われるが、自己欲求から昇華したところにきちんと届いた行動を行いたいというぼくの希望があるので、ぼくはいつだって悩んでいるとも言える。ふと、10年ほど前に流行ったこんまりメソッドと谷崎潤一郎「陰翳礼讃」とを日本の美意識と同列して捉えている人はいるのだろうかと思い、調べてみたところ、Wabi sabiとkonmaring(コンマリの現在進行形ing)について考察しているワシントン在住のインテリアライターがいた。まあ、アメリカの大多数ではこのライター同様に侘び寂びもインテリアフィロソフィーとしてしか認識されているのだなと、その度胸に感心した。ぼく自体も侘び寂びを理解していないからそうなるのだ。こんまりメソッドも侘び寂びも一つの哲学であることには変わりないと言われても、言葉が出ない。 果たして物事の本来の意味がきちんと伝わることが良いのか、その事象を受けた人が物事を理解しようとすることがいいのか。オランダに来てからこんなことについてよく考えている。何かその土地独自の考え方が他の地域にきちんと伝わることなどないのかもしれないが、それに向かって進まなければ何を頼りに進むべきなのかわからなくなる。きちんと伝わることを目的としないならば、寿司の米でがバスマティライスに置き換わってもそれは問題とならないということなのだ。本当にそんなことがあっていいのだろうか。伝えなければならない。ぼくは、何かと何かの狭間で常に思考を揺らしている、そんな揺れの状態をグレーな状態と呼ぶのであれば、陰影とも言えるかもしれない。よく言いすぎているか。 このアメリカのインテリアライターの文章は、詳しくはgoogleすればすぐ出てくるので読んだらいいと思うが、谷崎潤一郎が寂びについて、こんな風に書いていることを引用し、こんまりと全く正反対の思考が存在することを書いている。 We do not dislike everything that shines, but we do prefer a pensive lustre to a shallow brilliance, a murky light that, whether in a stone or an artefact, bespeaks a sheet of antiquity…. We love things that bear the marks of grime, soot, and weather, and we love colours and the sheen that call to mind the past that made them. ものでも人間でも年月と個性の跡があるものほど常に美しいとぼくには感じられるが、こんまりのメソッドにはグレーが存在せず、全てが白か黒で分けられ行為がとても冷酷である。何が自分の中で喜びをスパークさせているか、ということは理解できるが、こんまりメソッドには不完全さを受け入れるという要素は欠落している。オランダは、白黒はっきりつけることを好む国である。ぼくと聖子ちゃんは白黒つけることを拒むように生きているので、その点でぼくと聖子ちゃんはオランダではとても苦労している。結局、何の話か今日もよくわかならい。