2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.5.13

Translate

2024.5.13

ベッドルームにカーテンを買った。ぼくのベッドルームは、南東に窓が向いているので、朝一番から日差しが差し込んでくる。窓に頭を向けて眠っているので、目覚めると窓越しに青空が広がっている。これが晴れた春先の朝はとても幸せな気分にさせてくれていた。冬から春にかけてはまだ太陽の高さもそれほど高く上がらないので、太陽の日差しも室内の壁に光を見せていた。しかし、ここ2週間くらいだろうか、朝一番から日差しが強くて、太陽の高さも高くまで上がり、寝ている顔が焼けてしまうほどなのである。ぼくは、家にカーテンをつけるのがあまり好きではないが、朝が早く夜が長く、そして家の構造が生活に合わせて計画的に建てられたわけではない街路のための住居に住んでいると、カーテンは必須だと思った。自分で自分の生活を司る必要がある。土地と環境に合わせて作られた住居であれば、自然に身を委ねることもできるが、この住居ではそうもいかない。住人が自発的に具体的な行動を起こさないといけないのだ。 カーテンフックをハードウェアショップに買いに行くと、25個入りが売っていた。25個入りを買って家に帰り取り付けてみると、微妙に足りない。カーテン1枚に対して25個でいいかと思っていたが30個ほど必要である。ぼくは販売されているフックの数が25個なのであれば25個で間に合わせればいいと思ったのだが、聖子ちゃんは「カーテンの穴の数に合わせてフックを買った方がいい、そのほうがドレープが均等でキレイだから」と言った。確かにそうなんだが、じゃあ残った30個ほどのフックは不要になるがそれはどうするのか、と疑問が浮かぶ。そんなことは後で考えればいいし、それ以上に完成するものがパーフェクトであるというのが聖子ちゃんの考えである。ぼくは、考えてからでないと動きたくないので、大体行動が遅れる。この会話の後、これについて考えていた。ざっくりと2分割すると、彼女は美的側面がどう日常に影響を与えるかに興味を持ち、ぼくは現象がどう日常に影響を与えるかに興味があるのだなと思った。だから、ぼくはいつまでも最高級のものが少しだけある状態に憧れているのだろう。ぼくは、現象に興味を持ち育ってきたので、ドレープがフックがついてないことで2,3箇所ほどサイズが太くてもそれが機能しているのであれば十分に満足なのである。 はっきりここで明記するのであれば、自分の中にはゆっくりでも100点を出し続け仕上げていくという感覚が欠落している。彼女は、100点のものをゆっくりでも作りたいと思っている。ぼくは、80点くらいが継続的に続けばいいという環境で育った。だから、ぼくは自分の中にない「最高級のものが少しだけある状態」にいつまでも憧れているのだろう。それがぼくが作品を作りたい理由でもある。数ではなく納得いくものをきちんと仕上げるという自分の中になかった感覚に対するプラクティスでもある。ぼくが常に憧れているのは、マニファクチャーにない左右されない美であり、今日の数字「25」はマニファクチャーのメタファーなのである。「25」に対して、ぼくは心を許そうとしていたのだ。こうやって言語化するとぼくの美意識の甘さを露呈するような出来事だった。戒め。