2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.5.12

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2024.5.12

5月に入る前くらいからかなりガタガタと崩れ落ちるようにリズムを失ってしまったのでまともな日記を書けていなかったが、アントワープから帰ってきて少し元気を取り戻したかのように、一気に1週間分の日記を書いた。まだまだ全快でもないが、気が方向転換したような気がしている。何か自分自身で変化を生み出して、ここから脱出する術を考えて手を動かそうと思うだけの元気が戻ってきたとでもいうべきか。なかなかリズムが掴めない日々でも少しでも言葉をメモしておくとその言葉を元にその時の自分の思考の動きを後から巡ることができる。継続しているものが途切れそうになった時とか、途切れた時にどんな風に再びそこに戻れるかというのがぼくの中で人間の力だと思っていて、それはたとえばパートナーとの関係とか人間関係でも同じで、心が切れそうになったり切れてしまったり、その場合に何がどんな風に心を繋ぎ止めるか、そんなものをぼくは常に探しているように思うし、ぼくはみんな各々の方法を持っていると思っている。かなり辛いし諦めてしまうことは簡単なのだが、暗いトンネルの中で少しでも光が差すのであれば手探りでそれに向かうような丁寧で地道な作業が必要とされる。平和のためには、諦めずに、どんな状況でもどうにかその途絶えそうなキャンドルの灯を途絶えさせない、そんな忍耐や自虐にも近い心が必要なのだ。その力こそが人間の力なのではないか。この文章の場合には、少なからず読者がいて時々感想をくれることを想うと心を折れそうになる時に力を出すきっかけになる。最近では読者数が増えることもその一つになり始めている。しかし、読者数が増えること以上に、読んでますよと言われることの方が心の隅々まで勇気を染み渡らせる。また、自分自身の過去を振り返るときにとても便利なものとなり始めているということ、人生に置いて何を考えていたかと言語にしておくことや何か形にしておくことは自分にとってかけがえのないものであるとも思っている。 午後、デン・ハーグ市立美術館に行く。目的は、Marlene Dumasの展示だったが、常設展の中に「20世紀後半のアーティストは、人間の身体や精神的な限界をモチーフに制作を始めた〜」という部屋があり、Francis BaconとDonald Juddが同居しており、その部屋自体が現代人の日常生活の生活の姿を見せているようで面白いと思った。ぼくたち現代人の家自体も何かを示唆するかのようにインテリアが整えられ始めている。それは、テレビだけではなく、自身が発信できるメディアが社会だけではなく、ぼくたちの生活に介入し始め室内が社会に向けたものになり始めているからなのだろう。 作品数が膨大で2時間ほどでは見切れず、ゴッホからモンドリアン、クリスティアン・メンデルツマまでオランダ人アーティストの文脈を知るのに十分な作品量だった。少し書かない間に、作家の名前を英語で書いていたのか、カタカナで書いていたのか忘れてしまった。この日記にも、いくつかのルールがあり、土地名はカタカナ、お店の名前は英語、人名は、忘れてしまったが、多分英語で書いている。でも、ゴッホをVan Goghと書くべきなのか。そうだろうな。