2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.4.8

Translate

2024.4.8

なかなかビザ手続きが進まないので、移民局へ行き、二度目の滞在許可証を延長してもらう。誰に聞いてもどんなブログやネットでの会話を見ても日本人であればビザで困った人がいないというのだが、ぼくたちの場合は時間がかかり過ぎているような気がする。もう少し早く手続きが終わらないと生活できない人なんて山ほどいるのではないか。ビザが降りないだけで気持ちがどことなく萎縮してしまう。恐怖とか不安とかを抱えながら生きていると、身体が冷えてどんどんと小さくなっていくような感覚もある。悪いことをしていないのに、自分の決断に背徳感を感じるようになり身体が冷えて小さくなる。この国にいることの理由とか、ここまでしてぼくは何をしているのだろうか、とかどんどんとネガティブに思考を巡らしてしまう。もう少し客観的に考えたら、移民である立場にあるのにそもそも当たり前に受け入れてもらえるだろうという自分自身の態度が少し傲慢すぎるのではないだろうか。しかし、国境を越え、人間と人間という関係の中では、ぼくがどれだけオープンになろうともなかなか受け入れられない状況に悲しみさえ覚えるのである。しかし、その多くの悲しみや心の不安や少しの苛立ちは自分自身の中だけのもので、一度、誰かに認められると、やっぱりこの街のこの部分はいいね、とか言い出すとても単純な思考を持っている。ほとんどのことがうまくいかないので、今のところあまりこの国には受け入れられている気がしない。不思議な縁で10kgのコシヒカリをもらったのと、週末に食べたフレンチトーストの際に使わなかったパンドミの耳が残っていたので、家でとんかつを作る。とんかつを待っている間、河井寛次郎『WE DO NOT WORK ALONE』を読んでいると、内容を置き去りにして自分の考えが巡り続けて、これまで思い出さなかったことをふと思い出した。それは、言葉がトリガーになるのか、読んでいるうちに集中力がなくなり、違うことに気を取られたり、過去に物想いを耽ってしまうのか。どんな風に思い出を思い出すかは人の記憶とか経験に帰依するが、それでも本を読んでいるとふと全く違うことを考えていたというこの思考状態は誰しもが経験したことがあるのではないか。最近、何かをしていると些細なことをきっかけとして思考がふわつき出すことに興味を持っていて、特に紙の本が持つ魅力というのは、ある種のトリガーなのか、この「ふとした」何かを思い出すきっかけはどこからやってくるのかと考えている。その実態はなんなのだろうか。考え事をするために散歩をしているのだが、この数日はものすごく天気が良く、人々が笑いながら歩いているように思う。服装もどんどんと軽やかさを纏うようになり、冬のグレーの世界とは全く違う様相を見せ始めている。サーフボードを抱えて自転車に乗っている人も増えてきた。夕方散歩をしていると、立ち止まりたくなるような暖かな日差しを浴びた。カナル沿いのフェンスに体をもたれかけ夕方の陽を浴びる。街の風景は、1日の終わりを告げるように夕陽に照らされダイナミックな表情になっていく。普段見せないような色を見せ始める。ビールを片手にベンチに座る若者、ウィードを吸っている4人組の男女、カナル沿いに腰掛ける付き合いたてのカップル、犬を連れたぼく、みんな同様に同じ量の夕陽を浴びて、赤く染まっている。水面にはフランドル派に影響を受けた若いペインターが描いたような木々や雲のある風景が映り込み、イヤホンから流れるラジオのカートコバーン特集はメタリカの叫び声を大きく響かせていた。