2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.4.6

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2024.4.6

今日は、朝から青々しい大空が広がる快晴、天気予報は気温が24度まで上がることを伝えている。ぼくの家は、作業部屋と寝室が南向きにあり、廊下を挟んで反対にリビングがある。リビングには大きな窓があり、隣人たちの庭にある木々を眺めることができるが、直接光が差し込むことはない。夕方には、向かい合う家の窓ガラスに反射する光が差し込み、部屋の中に光を入れてくれる。それは、NYの写真家の撮る光に似てシャープネスを持つ黄色めの光で繊細である。少しの変化で無くなってしまうのでとてもデリケートである。それゆえに部屋のものをドラマティックな表情にさせる。夏は快適なのだと想像できるリビングだ。作業部屋には一日通じて日差しが差し込んでいるので、今日は朝の光を浴びながらフレンチトーストを食べた。家に残り物のパンがあるわけではないのに、青空と燦々と降り注ぐ太陽の陽射しのせいで、フレンチトーストをたべたくなってしまった。家の近くにいつも混んでいるフレンチベーカリーがあり、ファンシーでもトレンディでも、はたまたクラシックなわけでもないのだが、市井の人々が通っていることで、なんとなく気になっていた。いつもパンは家と同じ通りにあるPompernikkelで買うが、フレンチトーストを作るのに出来立てのパンを使うのはあまり良いアイデアとは思えなかった。フレンチトーストは、硬くなったパンでなければ、ということだ。昨日のパンが売っていそうなお店ということで、自分の差別的思考に少し罪悪感を感じつつそのフレンチベーカリーへ行った。クロワッサンは1ユーロ、パンドミが1.9ユーロなどで売られている。Pompernikkelのクロワッサンは3ユーロ、パンドミが売っていないが、サワードーは6ユーロだ。結局、古いパンはわからなかったが、パンドミを提案され、購入。やはり1ユーロのクロワッサンをみてしまうと、ぼくは1ユーロのクロワッサンが持つその佇まいが気になって仕方がない。Pompernikkel3ユーロのクロワッサンと同じく「クロワッサン」という名前をしているが、2024年においてはどちらも違う食べ物であると言ったほうが良いのだろうか。いや、そのどちらもが異なった感情を運んでくれる。安いから良い、良い素材と技術だから良いというだけの話ではなく、安さの持つ気軽さと、良い素材と技術や熱量によって生まれる生活の高い基準。それは、人間の営みと同じで、同じように毎日、日はのぼるが、日曜日はなんとなく緩やかな気分になりリラックスするし、月曜日に憂鬱になる人が多いのと同じようなものだと思う。もしくは、1月の火曜日と8月の火曜日との違いのようなものかもしれない。そこには優劣はなく、好みとそれ自体が運ぶ感情がある。インドの屋台で飲むラッシーが陶器ではなく背の高いグラスになると悲しいだろうし、田園調布のエベレストキッチンで飲むラッシーが突然ぼってりとした陶器になったらそれはそれでまた複雑な感情を生み出すのだろう。3ユーロの美しい層とクラストと香りの緩急を持つオーガニックのクロワッサンしか許せないという人はいるのだろうが、ぼくは1ユーロのクロワッサンが纏う空気を楽しめる人間でありたいと思うのだ。今ぼくたちはそんなことを失おうとはしていないだろうか。世界の変化に対してぼくはとても危惧している。良いことだけが正しいという世界ではなく、人間の思考による緩やかさと心の豊かさとで、世界との関係性を正しく保てる人間でありたいと思う。