2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.4.5

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2024.4.5

朝、7時に起き、メールの返事をして日記を書いて、Pompernikkelでアヤさんとカフェ。家に帰り、作業の続きをする。
天気予報は降水確率80%を伝えていたが、朝一番で雨が降ったっきり全く降らず、むしろ太陽が顔を出し、建物に木々の輪郭のはっきりとした影を落としてる。また、今日もデン・ハーグらしい天気を味わうこととなった。16時ごろ一服し、昼食を食べていなかったことに気付く。日が長いと何を食べようかと悩んでしまう。またフォーを食べようかとか生春巻きを食べようかとか、考えてみるが、19時でも明るいことと、そのせいで食事を食べ過ぎてしまうことを聖子ちゃんが懸念しているようだった。先日買えなかったハラスを買いに、自転車を10分ほど走らせてマーケットへ行く。こちらも天気が良いので賑わっていて、人の行動と天気は比例するし、通り抜けた街はふわふわとした空気を纏っている。マーケットで、ハラス、ガーリック、ジンジャー、ミント、パセリ、ディル、フルーツなどを買い、オランダのフィッシュアンドチップス、レッカーベッケンを食べる。かなり大きいのに2.5ユーロだった。10個くらい買っている人もいて、この移民のエリアを支えているような食べ物だなと思った。レッカーベッケンをこの辺りの住人だろう人たちに混じってスタンドで食べながら、立ち並ぶテントの隙間から雲ひとつない青空を眺めていると、新しい土地に来たことを実感した。買い物バッグを持ち、自転車置き場に向かっていると、「ぼくは文章をまとめた方がいいだろう、このままどんな風に過ごしていても同じように時間が過ぎるだけであれば、1年かかってでもまとめきれていない文章をまとめて発表するべきじゃないか。何をも捨ててでも、自分のしたいと思っていることを一つ成し遂げるべきではないだろうか。」と強く思い始めた。それは、ぼくが本来心の底から憧れている生き方で、自分で感じたことを 最低限の道具で表現する。そんなことにいまだに憧れを抱いている。カメラはLeica M6なのもその理由なのだ。ひとつの輝ける才能を持っているようなことを認識し、そしてその才能をブロンズ像のように磨き続けるが、過度に大切にし過ぎないということ。よくこういうことを考えていると、高校の同級生のスケーターたちのことを思い出す。彼らは、マルジェラのセットアップを着て、ディオールオムを着て、スケボーをして転げ回って、夜はクラブで遊んでいた。憧れていたわけではなかったが、一緒に遊んでいて楽しかったし、自分はスケボーをしないけれど、将来サラリーマンなんかにはならずに、多様性のある街を作りたい、そこにあるものを作りたいと思っていた。彼らにはお金があったんだ、と一言言いたくなる気持ちもわかるが、それ以上にスタイルと態度があった。良いものを纏うがそれを過度に扱わないというイキな姿勢があった。服に着られず、自分が生きたいように生きていた。昨日、村上春樹のインタビューを読んでいて、「自分の書きたいものが書けるようになったのは2000年くらい、『海辺のカフカ』からかな。それまでは書きたいのに書けないことがいっぱいあった。だから書けるものだけを書いていた。」と話していて、彼も自分の書きたいものを書けない時期があったのか、ぼくは、書きたいことが自分の力では書けないという状況に悩み続けていたが、この一言を読んで心がふっと軽くなるような感覚を覚えたのだ。みんな書けるわけではなく、続けて書くことで何か新しい風景を見ることができるのだろう。写真も撮り続けていると、撮れるものを撮ろうと思っているが、そこからまた一歩、自分がこんな風に撮りたいと思っているものを撮るというステージに向かっていかないといけないのだろう。最近は、自分の撮れるものを撮っていたらいいのだと思っていたが、そうではないようにも感じた。
帰り道、自転車の空気を入れ、信号を待っていると、向こうから男の子の兄弟2人とお父さんが自転車に乗ってやってきた。兄が手を振ってくれたので、よく見ると隣人だった。たくさんは話さないけれど、いつも気にかけてくれている。アーティストサポートも良い返事が来たし、今日は良い空気が街中にあった。とにかく、ぼくに圧倒的に足りないのは何かを成し遂げるための熱量と継続という、人生おいて非常に大切なエネルギーだ。