2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.4.21

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2024.4.21

朝起きると部屋が臭い、生ゴミの袋を閉め忘れたようだ。昨晩、リビングやアトリエの家具を一つのズレもなく整頓し、アトリエの片付けもし、ここで誰も生活していないような風景に戻してから寝たのだが、そのせいか朝起きると家具たちはその息を潜め、取り残された生ゴミだけが自分の存在を激しくアピールするかのように匂いを放っていた。窓を開け、新しい日の空気を取り込む。この街の週末は、平日とは全く時間と空気をまとっていて、もし自分が今日は何曜日かがわからなかったとしても、街を歩くだけで平日なのか週末なのかを知ることができるほどに、この街がまとう空気持つ朗らかさの違いが明らかなのだ。週末の朝は殺気だった自転車の大群を見ることもなければ、犬の散歩の姿すら見当たらない。正午を迎える頃にはテニスラケットをリュックに入れて担いだカップルや、サッカーユニフォームを来て自転車ののる少年たち、電気自動車に乗り込む家族、ワインバーのテラスで週末にだけ日差しを浴びることを許されたかのような女性たち、それぞれが各々の楽しみを自分の喜びだけのものとするかのように過ごしている。
今日も、太陽の光に包まれるような日曜日で天気がいいこともあり、何をするでもなく、日差しの下で午前中は調べ物をしていた。昼過ぎに家の近くに住むデンマークとオランダを拠点とする日本人の作曲家の吉田文さんの家へお誘いいただき伺う。夕方、フルハムvsリバプールを観戦。オランダに来てから、プレミアリーグが1時間の時差で観れるというのがとにかく嬉しくて仕方ない。日本にいると、夜中に起きて翌日に大きく影響を与えていたが、ここにいるとそんなことはない。ただ、日中の時間を奪われるという側面もあり、もっと仕事に集中する時間を取るべきという声も自分の心の中には存在する。なかなか心の声に素直になることが難しいこともあるし、厳しい意見も自分の中には多数存在する。しかし、どんな局面においても、生活の意味とか意義を考えることがぼくにとっては人生だということでもある。生活の意味とか意義を面前にした時、大股開きでシャンゼリゼ大通りの真ん中を闊歩していた仕事というものが、その足の歩みを少し遅らせ、他への配慮を見せるような姿を見せるのだ。
プレミアリーグを見ていると、大きくユーロ諸国というと語弊があるのは重々承知しているが、いかにユーロ諸国が日本含めアジアとかけ離れているかを感じることができる。それは、文化的側面や思考的側面、経済的側面、行動的側面様々であるが、経済文化的側面で言うと、ユーロ内は数カ国を除き時差もないし通貨も同じで関税もない。言葉は違えど、人々は動き続け、それほど大きな壁も感じない。彼らは、グラノーラを作るときにバニラエッセンスやシナモンを少量入れるかのようにアジア文化を取り入れる。あくまでバニラエッセンスやシナモンのように、だ。もちろん、それは日本人がイタリアやフランスの文化を取り入れているのと同様でもあるようにも見られるのだが、個人的にはやはりヨーロッパの文化は保守的である。世界的に、多様性が謳われるようになり、世界全体が同じ方向に舵を切ったかのように見えるが、その実態は多様性ではなく多様化とグローバル化していく中でLost in Translationが起きて、複雑さと多層にも重なる伝統が簡素化されているだけのようにも感じてしまう。そのLost in Translatonをどれだけ減らせるかが、今後の多様化においては非常に重要なのではないか。そんなことを考えながら、ぼくは毎朝この街で日本人を代表するかのように犬の散歩をしている。抹茶を飲み健康的な食事をする平和主義で綺麗好き、ルールを守るという日本人の姿だけではない日本人として。