2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.4.11

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2024.4.11

同じような日々の繰り返しで、思考ばかりが巡り続けているような気がするが、そんな中でも何か生産性のあるものを少しずつでも積み上げていくことができるはずだと信じている。同じような日々の繰り返しが人の成長にどう影響するのだろうか。自分の人生を使った実験をしていると思うと全ての出来事が笑い話のように感じられるし、ぼくが立ちはだかっている壁というものは大して大きいわけではなく、四方八方が塞がれているわけではないことに気付く。そもそもぼくの場合には、目の前に壁などは存在せず、壁があると思い込んでいるだけであって頭をその壁にぶつけることすらしていないのだ。走って壁に激突して、その壁を実感するのであって、ぼくの場合は壁を目視しているだけか、もしくは壁があるような錯覚に陥っているだけなのかもしれない。実際、目の前にある壁(もしくはあるように感じている壁)は、触ってみると
ただの紙切れに鉄の印刷が施されただけのペラペラのものかもしれないし、砂のように脆いかもしれない。触ろうともしていないのが今のぼくなのではないかと感じてしまう。頭から突っ込みぶつかってこそ、その壁の価値を感じ取れるのであって、今のような状況では壁を語ることすら不毛なのだ。壁があるから、自分の行動を認識することができるし、壁があるから絵を描き、自分の世界を広げることもできる。
Foam写真美術館のプレスマネージャのオタリーと電話で少し話す。その後、気分転換にPompernikkelへ行く。聖子ちゃんもぼくもカプチーノを注文する。平日の午後のPompernikkelは午前中や週末の慌ただしいものと違いかなり穏やかな時間を纏っている。穏やかさとは、忙しさの後に突然やってくるものなのか、それともこの世の中に元々存在するものなのだろうかとこういう時間を過ごしていると考えるようになる。例えばよく似た言葉で静けさというものもあるが、静けさはこの世の中に元々存在するのだろうか。静けさは「嵐の前の静けさ」という言葉があるように、息を止めるような緊張感を伴うものであるが、穏やかさは人間の安らぎとか、息遣いすらを感じる。穏やかさとは疲労や運動、温かさというものを必要とするということでもある。温かさは地球上に存在するので、この地球に動物が存在する限りは、穏やかさは存在する。穏やかさを感じるのは自分自身なので、たとえ彼女や犬の表情や佇まいが穏やかさを持っていたとしても、それを感じるのは、ぼく個人であり、自分がいないことには穏やかな世界というものも存在しないのではないだろうか。ぼくがいなくても彼女と犬の間に穏やかな世界は続くだろうか。
夜、卵チャーハンを食べて、ソフィア・コッポラ監督『Priscilla』を鑑賞。何かを期待するように見ていたせいで拍子抜けしてしまった。