2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.4.10

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2024.4.10

市役所に行き、住民手続き。二重構造になっており、実のところビザが降りていない状態でも日本人であれば住民登録ができるというのだ。一つずつ手続きを済ませていかないいけないと思っていたが、決してそうではないようで自分のこれまでの生産性のない日々が全く無駄だったということに気付かされる。そんな風にネガティブに考えていても仕方なく、気付きがあり、少しでも前に向かって進んだというのはとてもいいことのように思える。どんなことがあっても、どれだけ苦労をしても前進するということはとても素晴らしいことなのではないだろうか。前がどっちだということは置いておいて。
自転車を漕ぎながら青空を見ているとやはり海の近くに住んでいるという気になる。メルボルンやオークランドに住んでいる時にもそうだったが、海が近いというのは、
「家の鍵を忘れたから1時間後くらいに家に帰るから開けて欲しい」とメッセージがあり、しかしこの家の構造は玄関の先にさらに個人宅の鍵があるので、どういうことだろうかと不思議に思っていた。玄関の鍵を忘れたのか、それともうちでティムの帰りを待つつもりなのか、しかしオランダ人が22時過ぎまで仕事をするとは思えないし、などと色々と考えながら、とにかく家で待つことになったとしても、今まだディナーの後片付けが終わっていなかったので、キッチンを急いで片付けた。チャイムが鳴る、やはり鍵はないようで、不思議な表情を見せそうになると、ぼくらのキッチンドロワーに彼女の家の鍵もあるというのである、納得。全く気づいていなかった。久しぶりにオーナーのリーズベスと話す。
今読んでいる安部公房『壁』の序文として、作家石川淳が、壁があればぶち当たるのではなく曲がればいいというのをドストエフスキーが発見し、安部公房はその壁にチョークで絵を描くことを発見したと書いていた。そもそも壁というのは位置を固定し精神の死を表すものとして存在したが、ドストエフスキーが提示したように、人々がぶち当たることをやめ壁を前にして曲がるということは、壁は人間の運動を示唆するものとして存在しているということになる。しかし、いつか四方八方が壁に囲まれどうしようもなくなることがある。そこで安部公房が壁に絵を描くということを発見した、絵を描くということは人間の精神の運動に表現を与えているということで、壁があるから絵を描くことが出来、壁は動きを制限するものから、人間の生活が始まることを示唆するものへと変化するというのである。壁があるから物事が生まれるのだなと思うと、ぼくが今立ちはだかっている壁もぼく自身が何かを生見出すために必須なのではないかと思えてくるのである。人間とはいつの時代でも壁が立ちはだかり、その壁に対していかに立ち向かうかということを考えてきたのだ。ぼくの人生にも先人たちに漏れず、同じように壁が立ちはだかっている。