2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.5

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2024.3.5

朝、Bartine Bakeryでコルタードとパンオショコラ。聖子ちゃんはカプチーノを注文。
今日も午前中は、どんどん企画書を書く。アイデアが湧き上がっているので、今のうちに少しでも形にしておきたい。夕方、父から電話があり、話す。見た目はかなり若々しいがその彼の見た目以上に、息子に対して電話してくる父の行動に父が歳をとったなことを感じた。夜、アシフ・カパディア監督『Senna』を鑑賞。もし、ぼくが90年代に高校生で、セナの勇姿をテレビを介して応援していたなら、ぼくはきっと今頃、8月のザントフォールトのチケットを買い、8月を楽しみにしていたに違いない。それほどに、セナという人間にはF1レーサーとしてだけではなく人間の魅力があるように感じた。
昨日の、掲示板での書き込みの件に対してだが、不特定多数のみる場所での自分の気に入らない言葉に対して無視するという態度表明もできるが、無視という行為が効果的な側面と、全く効果的でない側面を持ち合わせているように感じている。不特定多数のみる場所は、ことで語られる言葉に重みやアティテュードがないと思うと同時に、どこで使われる言葉の全てには最低限の意味とその意味に付随する感情や重みというものを備えているのではないだろうか。だから、言葉には言葉での対話が必要なのではないかと思うのである。そうやって言葉が育まれてきたのだ。言葉が育まれ、思考や行動に影響を与える。だから、言葉には言葉で対抗することが必要なのだと感じている。それは、他のフィールドでも同じで、文化的活動には文化的な形での対話が必要なのではないかと思うのだ。文化の一端を担う者としての意識を明確に持ち、自分の態度を表明したい。
ぼくは高田渡の喫茶店のこの話が好きだ。それはこんな話である。
高田渡が、家の近くにできた喫茶店へ行き、コーヒーを注文したが、出てきたコーヒーがものすごく気に入らず、コーヒーが美味しくないと言って帰った。店主は、高田さんはもう来ないかなと思っていたが、数日後また来たのだという。そして、また美味しくないと一言言って帰ったのだそうだ。そして、また数日経ったらふらっと現れたそうだ。そして、気付けば彼はその店の常連になっていた。まずいから見捨てるのではなく、いいコーヒーを淹れられるまで見届けるという、彼なりの自分の住む街に対する態度なのだ。社会変革は、そんな態度のある人間の小さな行動が伝染するのではないだろうか。ぼくは常々、よくなかったことを一度で判断するような今の社会がとても辛いなと思うし、愛というものはそんなインスタントなものではなく、善悪の全てを包括していると思っている。たとえば、あるカップルがいる。どれだけ彼がだらしなくても、その彼を信じるという彼女の力が続くこと、そして彼は変化するかもしれない。その可能性と希望を見ることが愛なのだ。もし変化しなかったとしたらその女の見る目がなかったというだけの話なのである。
かなり話がずれているので、結論。無視という態度表明の価値と、対話することによる価値について、文化の継承、育成においては、ぼくは文化には文化での対話を希望する。