2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.30

Translate

2024.3.30

 最近、あまりにも気分が晴れないので、疲れが心の中に遠慮会釈もなく入り込んできたのだと思っている。少しくらい遠慮や会釈くらいあってもいいのにと不快に思うが、ぼくのことなど誰とも知らず心をスクワッティングしようとしているのだ。
ぼくの心がそんな状態にあるのは、自分がいる場所に対してただの通過点だと思っているからだろうか。パリに住んでいた頃のようにこの土地に憧れてきたわけでもなく、あの時の希望に満ち溢れた選択は、実は現実から逃げるような安易な思考による決断だったのではないかと過去の自分を恥じるとともに、今ここにいる自分さえをも恥じている。川の上流で見られる堂々とした岩や、ここを故郷とすること(To Make It Home)という意思のあるタイトルをつけたロバート・アダムスのようなものは今のぼくの中には全くないように思えてしまう。雲隠れしているというべきか。ぼくはロバート・アダムスの思想に大きな憧れを持っているのだが、彼のように社会に対して警笛を鳴らし、自分のいる場所を自分の故郷とすることができるだろうか、その度胸を持ち、一人の人間として社会にコミットすることができているだろうか。大義にはぼくにはその想いが備わっていると信じたい、国や都市、生まれ故郷だけではなく、地球全体を自分の故郷として、その恵みを新世代に継承したいと心の端っこで思っている。それがこのジャーナルのタイトル「2100年の生活学」であり、ここで文章を書くことにも繋がっているのだ。ふと思いついたぼくの日常の出来事で喩えよう。家の近くのオーガニックショップ、エコプラザでいつもミルクを買う、紙パックより1.5ユーロ高いビンのものを買っている。ビンを持っていくと70セント返金がある、借りるということ、貸を受けるということは、社会にコミットし、責任を持つことだなといつも感じる。これはフィジーのケレケレ文化の特徴である。貸し借りがあるということは人間の関係においてはとても大切であり、社会というものは貸し借りで成り立っている。話がずれそうなので、戻すが、大した事ではないが、写真を撮るということ、文章を書くということ、作品を作るということはこれなのである。日々の行動にいかに自分の思考を見ることができるか。
自分がいる場所を通過点と思っていたとしいても、その中でその土地のルールで社会にコミットし、ここと故郷としようとしているはずだと文章を書くことで気付かされた。こうやって文章を書いていると、心がぼくの思考のリズムを捉えだす、これが一つの心の栄養だなと思える。