2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.21

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2024.3.21

朝、額装屋に、依頼していたPasse-Partoutを取りに行く。昨日、「明日の夕方に仕上がるから、また電話するね」と言われていたのだが、「出来上がったんだけれど、今日はもう閉店だから明日来て」と昨日のうちに電話があった。最初に、ちょっと長めの日時を伝えておいて、早く仕上げる。これはオランダらしい文化だな、文化というか人間の癖か。
帰って、ワールドカップアジア二次予選予選、日本代表vs北朝鮮代表を観戦。結果1-0の辛勝、内容はもう見るに耐えない。見るに耐えないと言いながら、見ていると言うのは、現代的だなと思った。コンテンツは内容が良いと言うだけの理由で選んでいるのではなく、アクセスの簡易さとか、放映されているかどうかで選ばれている。だから、サッカーが観たいから日本代表を見ている感覚で、日本代表が見たくてサッカーを観ているわけではない。ぼくが自分自身に対しても危惧しているのは、何事にも受け身になっているのではないかということで、そこに流れてくるものを受け入れるという選択肢が多くなっていることだ。例えば、更新の不安定な良質なコンテンツを配信しているメディアよりも、毎日更新されるくだらないニュースをチェックする時代になっているのではないかということだ。受け手は、いや全ての人間は受け手になりえるので、全ての人間と言い換えるが、スピードが上がる時代に対応していると、常に新しいニュースが欲しくなってしまうのだ。時代の流れは、質の良さではなく、量勝負なところはある。現代においては内容がどうとかではなく日々流れていることが大事なのだ。
そんな時代の流れに流されずに、そして何もせずとも流れゆく時間の中で、自分の流れを自分自身で作ることや1人の人間としてそんな流れに対抗するためには、自分で本を選んで読むこと、映画を選んでみること、レコードを選んで聴くこと、そんなことではないだろうか。自分の人生を自分の形に形成するのにいかに大事かと言うことを強く思わされるような日々である。日を跨いで28時過ぎまで眠れず。いつも日を跨いだ時間表記についてとても悩むのだが、朝4時と書くと、内容からは理解できるが、タイトルからとの関連性がなくなってしまうので、できるだけ、24時間を超えて続いていると言う意味をこめて、こう書くようにしている。