2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.2

Translate

2024.3.2

 日本を発つ前に一保堂で買った大福茶をケチケチと飲んでいるので、茶筒の中にはまだたくさんの茶葉が残っている。昼食後に、そこからたっぷりとした 量の茶葉を急須に入れお湯を注ぎ込む。去年手に入れて気に入っている小ぶりな辻村唯さんの湯呑みで一煎目を飲み終え、またお湯を入れ、二煎目を飲もうとしていた。たった30秒だ、パソコンに向かってメールを書いていた途中だったこともあり、常用しているティーバッグの癖で、茶漉しを使わずに急須からお湯をそのまま湯呑みに注いでしまった。あっと思ったものの何の役にも立たず、茶柱がそのまま湯呑みに入る。その時、ふと思った。「茶柱が立つと縁起がいい」というが、茶漉しなんて使っていると、縁起のいいことが起きない。しかし、縁起がいいからと言って茶柱を立てようと思うと、茶漉しを使うわけにはいかない。茶漉しを使うとそもそも湯呑みの中で茶柱が立つなんてことは起きないのだから、縁起のいい機会を自らの力で逃すということである。ということは、茶漉しを持たないことが縁起を良くする最大の秘訣だということになるのだ。しかし、それは本当にお茶飲みの正しい姿か。茶漉しを使わずにお茶を用意するというだらしない行為が縁起のよさを生み出すということだろうか。いや、そうではないはずだ、きっとだらしない日常を過ごしていると、縁起がいいことを感じることが多いのだろうか。だらしないの反義語を「自分を律しながら明確な意思を持ち生活すること」とすると、自分を律しながら明確な意思を持ち生活していると、生活の中に縁起がいいという感覚さえ入り込む余地がなくなるのではないか。そんな人たちは、縁起がいいなと思う前に、自分の行いが良かったのだと感じるのだろうか。もしくは、縁起を求めて、茶漉しを使わずに、茶柱の入った日常的なお茶ばかりを飲んでいると、いつかはそれが身体に染みつき、怠惰でみっともない姿になってしまうのだろうか。求めると手から滑り落ち、求めないと棚から牡丹餅が落ちてくるのである。
ぼくの湯呑みの中で茶柱はぷかぷかとだらしない姿で寝ていた。