2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.1

Translate

2024.3.1

朝、聖子ちゃんとカフェへ行く。Cairo Apartmentのミーティングを毎週金曜日にしている。一緒に住んで、日々仕事だけではなくいろいろな相談をしながら生活し話していいると、ある区切りがないとなかなか方向が決まらないような気がして、先週から毎週一回はこうやってCairo Apartmentの話をしようと始まった。昼は、昨日買ったスズキを使ってpiciを食べる。
その後、14時半にオードリーさんとde Kadeで会う約束していたが、雨が降ってきたり、急を要するメールの返事が来たりと家を出たのが1437分だった。自転車で8分くらいで着く。オードリーさんとの待ち合わせにはなぜか毎回遅刻してしまっていて、申し訳ない気持ちでいっぱいである。時々、その人との約束の時にはなかなかスケジュール合わせられないという人がいるのだが、彼女はその一人である。別に、彼女が悪いわけではないし、ぼくも遅れたいと思っているわけではない。むしろ、オードリーさんとの約束には絶対間に合わせたいと思っているのに、だ。しかし、毎回直前に急用のメールが来たり、雨が降ったり、電車が遅れたりしてしまう。15分前行動を心がけていてもなぜかそうなってしまうのだ。これ以上言うと会いたい人に会ってもらえないと言うことも起きてしまうのではないかと不安に駆られるので、この辺で留めておくが、とにかくきちんと行動できるようにしたい。隔離されたような日々、いや自らで隔離した日々を過ごしているので、デン・ハーグに誰か友人が来ているという事実はとても嬉しい。店の前に停めていた聖子ちゃんの自転車を盗難された。チェーンロックは残されているが、さっきまでそこにあったものがないというのはとても奇妙な光景だった。信じられない状況だが、これが真実なのだろう。2人ともよく信じられず、自分のことのようではなく、不思議な感覚に囚われ、信じられない!が頭を充満して、怒りや悲しみさえもそこには入る余地がなかった。少し歩き探してみたが、見つからない。仕方なく、ぼくは自転車で帰宅し、彼女はトラムで帰宅。しかし、自転車を盗む理由はなんだろうか。自転車は盗まれたとしても、この世からは決して失われることはない、自転車を盗み、それを転売することは、簡単に60ユーロほどを手に入れることになるのだろうが、同時に盗んだ自転車で作られたお金は、また負のサイクルを生むのだろう。そのお金が教育に使われ、世界の識字率の向上に上がるわけでも、文化的教養が身に付けるためのお金として使われることを想像し難い。しかし、今ぼくたちができることは、怒りや悲しみという感情を自分の心の中に入れ込まないこと。そして、あの自転車に乗っていたら自分が事故したのじゃないか、だから仏様は自転車を自分たちの前から消したのだと思うことも良いかもしれないが、そんな風には考えずに、あの自転車が新しい人生を楽しんでいることを信じ、そしてもし転売されお金に変わったとしても、そのお金が教育に使われ、少しでも教養を身につけるものとして昇華されていると信じることだ。ぼくたちはドネーションした、意識的ではないにしろ、それは社会への貢献であり、社会確変への一歩なのだ。そう信じることでしか、自分の中に怒りや悲しみという感情が入り込んでしまいそうである。しかし、残念だなと思うのが、ぼくたちは自転車にとって一番良いオーナーとなり得たのに。自転車も本当はぼくたちのようなオーナーと一緒にいたかったんじゃないかと思うと心苦しくなる。それは傲慢ではなく、それがぼくたちがすべてのものに対して抱く感情なのだ。もっと広くいうとものにとって、人にとって、すべてのものからぼくと一緒にいることが一番幸せだと思えるような行動、振る舞い、思考、態度、精神性を常に持ち合わせていたいということでもある。だから、大切な友人との約束に遅刻したのはあまり気持ち良いとは思えない。