35歳の誕生日。ステラの散歩に行き、Bowieでランチをして、ビーチへいく、ステラの散歩をして、ビーチハウスで一服。晴れた火曜日。夜は聖子ちゃんが、家でポーチドフィッシュなど、ポルトガル料理に憧れた料理を作ってくれた。聖子ちゃんが買ってきてくれた花瓶が割れて左手の中指を切った。あまり指を切るようなことがなかったので、自分の身体から血が流れるのを見て、他の身体が震えるのを感じ、自身の身体と生を実感するようだった。抱負とか野望を語るとか、一年の節目にそういうことを考えるのも大事だが、自分が今どこにいるのか、人生においてどんなところにいるのかを知ろうと思った。昨日、書いていた村上春樹の短編集『回転木馬のデッドヒート』の中にある短編「プールサイド」から引用。
「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折り返し点を曲がってしまったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折り返し点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰にもわかるわけがない。・・・それでも彼は35歳の誕生日を自分の人生の折り返し点と定めることに一片の迷いも持たなかった。そうしようと思えば死を少しずつ遠方にずらしていくことはできる。しかしそんなことをつづけていたら俺はおそらく明確な人生の折り返し点を見失ってしまうに違いない。・・・そしてある日、自分がもう50歳になっていることに気づくのだ。50という歳は折り返し点としては遅すぎる。百まで生きた人間が一体何人いるというのだ?人はそのようにして、知らず知らずのうちに人生の折り返し点を失っていくのだ。彼はそう思った。」
いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折り返し点を曲がろうと決心した、ということになるだろう。
もちろん自分の人生が何年続くかなんて、誰にもわかるわけがない。・・・それでも彼は35歳の誕生日を自分の人生の折り返し点と定めることに一片の迷いも持たなかった。そうしようと思えば死を少しずつ遠方にずらしていくことはできる。しかしそんなことをつづけていたら俺はおそらく明確な人生の折り返し点を見失ってしまうに違いない。・・・そしてある日、自分がもう50歳になっていることに気づくのだ。50という歳は折り返し点としては遅すぎる。百まで生きた人間が一体何人いるというのだ?人はそのようにして、知らず知らずのうちに人生の折り返し点を失っていくのだ。彼はそう思った。」