2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.11

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2024.3.11

東日本大震災から、13年が経った。まだあの日のあの頃のことを比較的鮮明に思い出すことができる。あの日は、森内なおちゃんと聖子ちゃんと奈良のくるみの木でランチをしていた。頭がフワーッと揺れる感覚があり、怖くなって、2人に「ぼく急に酔ってるかも」と言った。大体そんなことを言って、いつもみたいにふざけてるのかと呆れた対応か冷めた対応をされていたのだが、あの日は「私も!なんか変よな」と声を揃えた。毎日のように遊んでいたちゃっぴやひとみちゃんがちょうど東京に行っていて、浩三もロンドン移住に向けて関東に戻っていて、1年早くコムデギャルソンで仕事をしていたとりさんとみんなで会っていて、彼らの安否を確認した。みんな大変なタイミングで東京に行ってたんだなと思った。それから、ぼくは東京に少しの期間住んだが、すぐにやっぱりダメだと思い、大学時代の研究の一環としてマルセル・モース『贈与論』を読んで以来長く憧れていたフィジーに行った。「自分は自分の人生においてどのくらい人生が与えてくれるものを受け取れるのだろうか?」と自問して、フィジーに向かったのを覚えている。あの頃、自分の中で色々な感覚が大きく変化するのを感じたし、非力さと非現実さの間で、何もできずにしかしエネルギーだけはどこかに発散しないと体が張り裂けそうになり、とにかく一日中街を練り歩いていた。家を借りることさえも怖くなり、同居してお笑い芸人をしていた中学からの親友川原とハマには無茶苦茶な理由を言い大喧嘩になり、先輩の家のリビングルームで寝ていた。どのくらい自分の元に自分自身の生活を取り戻せるのかと考えていた。家を持つ前に、大空の元で寝て、火を焚いて生活を始めないといけないと思って実践した。それからも、ずっと生活については考えている。そう考えると、あの頃の自分を取り巻いていた感覚とか、空気とか、それをまだ自分の中に留めておけているのは、自分の変化のなさからではなく、あの頃がとても未熟で大志に溢れていたからなのだろう。そして今、大志は抱いているだろうか、と自分自身に問いかける。
そのあと、フィジーに行ってフィールドワークを始めてからは、自分の感覚は大きく変化していった。自力で生きること、知識やエンタメの無力さをそこでは感じるようになった。どれだけ、『ゴダール全評論・全発言』を枕に、東城百合子『家庭でできる自然療法』とヘンリー・デイビッド・ソロー『森の生活』を小脇に抱え、スタジオボイスやOK FREDRelaxを古書店で見つけてはタイトルを見ずに買って知識で武装していても、灰野敬二に憧れてヘアカットをしたり、小西康陽とヤマツカアイが通う京都と奈良の国道沿いのレコードショップに通っていても、「ブライアン・イーノもスティーブ・ライヒも驚く」という非常にミニマルな生活を綴った文章を書いていても、共通言語がない場所では、知性と振る舞いだけが人と生きる人生の中では豊かな色彩を持つこととなったのだ。そして、6年後、日本に帰ると、またぼくは島に取り残された小野田寛郎のようになっていたのだ。そして、知識武装する人たちとの会話のなかで、まだ敗戦を信じられない
小野田寛郎のように、自分の価値観とのズレを埋めきれずにぼくは頭を掻きむしっている。こんな人生の物語の始まりは、あの2011年、震災と原発被害の問題だったのか、それとも21歳という年齢のせいだったのかはいまだにはっきりとはわからない。いまだに、ぼくは自分自身がどんな風に生きていけるのかあいまいなのだ。3.11について考えるとき、自分の思考は常に高速にこんなことをぐるぐるとしてまた再びモラトリアムという深い霧を浮かび上がらせることになる。それでも、ぼくは忘れたくないのだ、あの頃の自分のことを、そしてそのあの土地でもがいたり夢を抱いていた人たちのことを。心がギュッと締め付けられる。