2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.3.10

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2024.3.10

 朝、ステラの散歩の途中にPompernikkelへ立ち寄り、サワードを買う。9時オープンのお店だけれど、立ち寄った9時にはもうすでに人で溢れていて、とても忙しそうだった。日曜日であるにもかかわらず、だ。基本的にオランダの日曜日は、特に午前中は街はものすごく静かで、このデン・ハーグも例外ではない。それは、宗教の色濃くあった生活の名残りだと言われているが、実際のとことは不明。こうやって街のベーカリーが日曜日の朝9時にオープンと同時に満席になっているのだ。昼食後、セントラルへ行く用事があったので、用事を早めに終わらせ、聖子ちゃんとBartine Cafeへいく。テラスまで人が溢れているが、レジ横の席を見つけ、座りながら人を眺めていた。今日はシティマラソンだったようで、胸に名前を書かれた人たちがゾロゾロと歩いていたり、走り足りなかったチームたちが追加で走っていたり、応援に来ていた妻が首にメダルを携えているランナーの夫と共にふくよかな空気を抱え込んだような表情を見せながらカフェのテラスに座っている。いかにも日曜日というような晴れやかな青空である。街はマラソンの熱気に溢れていた、そしてそれはデン・ハーグの通常の日曜日が含んでいる幸せな気分と相まって、爆発しそうなほどに陽気な空気であった。その陽気さは陽気を代表するあのラテンのものではなく、いかにもオランダらしい日曜日だ。ぼくは、まだそれを言語化ですることができない。しかし、カフェのレジ横の少し背の高い椅子に座りながら、自分の欲求に応えるように何事にも具体的に行動し問題をきちんと解決して前に進む優等生のような彼らを見て、ぼくはふと思った。ぼくはこの新しい土地で、何を試みているのだろうか。ぼくにとってのニューフロンティアは世界の観光的主要都市以外の場所にあると思っていたがどうだろうか。新しい土地で、自分が享受するあれこれをきちんと自分自身の気付きによって受け取ることができるだろうか。ぼくのようにあいまいに悩む人間がこの国では価値を持たず、いや、ぼくだけではない、大江健三郎がいう戦後日本人が含んでいたあいまいさ、それはこの土地においては全くの美学を持たないように感じてしまう。ぼくが育ってきた環境から創り上げようとしてきた生活観や、培養してきたあいまいな価値観がこの土地にいると、そんなものへの理解が失われるような、「そんなモラトリアムに似た感情はきちんと自分自身で解決してください」と言わんばかりの、順序立てて前に向かうことだけが許されるビジネスマンのような感覚が、この国中に溢れているのである。日曜日のデン・ハーグのシティセントラルに来るといかに自分があいまいであるか、「日曜日の昼下がりに友人たちとカフェのテラスでワインとビールを飲んでいることだけでは決して自分の心が満たされるわけではない」ということを強く感じさせられるのである。