2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.2.29

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2024.2.29

朝からミーティングがあり、7時に目覚ましで起きる。朝からミーティングがある日は無理矢理でも起きることができるので、とても良い気分だ。朝が苦手なわけではないので、予定があればそれに合わせて起きることだって全く問題にはならない。毎日、7時に目覚まし時計をセットしているものの、いつもはベッドの中で、瞑想のように目を瞑っている。意識はある。もちろん、その行為も普段の瞑想と同じで色々と考えてしまうのだ。そんな風に書くと、瞑想は、視覚や聴覚など体の感覚に意識を向け、心を静め無心になることを指すが、実際、瞑想ビギナーや瞑想をしている人たちの多くの人が瞑想中に煩悩で頭がいっぱいになるが、その状態のことをなんと呼ぶのだろうかと気になってきた。瞑想は、心を静め無心になることを指し、瞑想を試みている状態、煩悩でいっぱいになってしまうことさえも広義における瞑想の意味となっているのだろうか。「瞑想」という言葉を思いついた時に、心を静め無心になることを指すと同時に、人によっては煩悩で集中できない状態さえ「瞑想」という言葉には含まれているのではないだろうか。ぼくはふとなんとなくその意味の周りにあるものを集めたいと思ってきた。その周りにあるものは、各々の主観によって決められ、選択され、意識の中に置かれる。ある人は、「瞑想」から煩悩で頭がいっぱいになる状態を広義に含まないだろう。
もしくは、世界に起きるすべてのことをシームレスに言葉で繋ぐということは不可能なのだろうか。シームレスに言葉で繋ぐことができないから、そこにペインティングがあり、写真があり、音楽があり、芸術が存在し得るのだろうか。識字率の低かった時代や地域において、宗教絵画がその物語の継承を大きく手助けしていたというが、識字率が上がり、言語化できる時代において、それを言葉によって補うことができるのだろうか。絵画にしか伝えられない物語の継承方法があるのだろうか。意味の継承ではなく物語の継承だということに意味がありそうな気もする。絵画は象形文字などの存在に助けられ広がってきたものだとも考えられるが、では写真も象形文字や絵画というものの延長線にあるのだろうか。写真は、現実を見ることの延長線に存在し、描くことで伝えられるという絵画の価値とは全く違っていて、見るという行為に付随する心の動きをアップグレードするものだったのではないだろうか。もちろん絵画的側面も存在すると思うが。もう少しこの切り口で考えるのは良いかもしれない。
先日、聖子ちゃんとCairo Apartmentの新しいプロジェクトの話をしていたが、それは連想ゲームのようだがとても品位と知性を感じるのではないかと盛り上がった。まだ始まってもないプロジェクトをここであれこれ書くのもつまらないので、いつかスタートしたら書きたいと思う。単語に付随する意味について、それは先日考えていたことにとても親和性を感じる。