2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.2.25

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2024.2.25

日曜日。朝、ステラの散歩に行くも、街には人はほとんどいない。お店は日曜日休んでいるわけではないのだが、朝はとにかく人がいない。日曜日は休む、とてもトラッドな姿だなと思う。ぼくは、この日曜日の朝の時間が好きだ、人々が街に出る前の静まり返った風景、青みがかった空気に太陽の光は遠慮することなく注ぎ込まれる。街路には真新しい風が週の終わりを歓迎するかのように駆け抜けている。そんなことに気付いているのか、ステラも興奮している。いつもより歩くスピードが速い。こちらが止まると、同じように止まってぼくの顔を覗き込むが、それでも前へ進みたいという気持ちが姿勢に出ている。
掃除をし、床を拭く。スタジオにテーブルが届いたので、作業が一段と捗るようになった。太陽の光は燦々と降り注ぐ部屋なので、スタジオとして使えるのかという疑問もあるが、それは暖かくなった頃の課題にしたらいい。今は、冬に太陽が降り注ぐ暖かい部屋の存在を素直に喜ぶべきだろう。新しく買ったRicoh GRiiixの使い方と設定などについて調べる。取材で使えそうだなという雑感。Leica M6とは撮れるものも向かう姿勢も全く違うので、自分の中で写真を撮ることの価値のようなものが具体的になっていきそうだ。二つになることで一つの価値がより際立つ。よくあることだが、比較はぼくにとってはよくない。ぼくは、写真家ではなく、作家なのだ。そうだ、自分自身を作家である、と強く思うべきである。作家の活動を自分の軸にしないと、また思考と身体を壊す。15時からカラバオカップ決勝リバプールvsチェルシーを観戦。結果延長後半118分にリバプールのキャプテン ファン・ダイクの劇的ゴールでゲガ人続出中のリバプールが1-0の勝利。こういう試合を見せられるとフットボール観戦はやはり面白いなと思う。フットボールだけではなく、何事にも言えることだが、とても単純に観たものが面白かったり、刺激的であったりするとやはり次も見たいと思うのだ。
人との会話の中で、何も考えずに言葉にただただ反応するようにああだこうだと話すこともできる。ただ、それに一つのルールを設定し、会話をする。それは話者本人の個人的な喜びだとしても、その話の中で相手にヒントを送り続ける。これこそが人生で最もプリミティブで「高尚な遊び」である。
例えば、ある2人が一緒におにぎり屋ぼんごに行くために東京の大塚駅に降り立ったとする、1人がその頃雑誌にスクープされ話題だった政治家木原誠二の話をさらっと話し始める。聴く側は、もちろん木原誠二については知っていない、もしくはよっぽど興味を持っていない限り知っていたとしても基本的な情報しか持っていないだろう。その時、大抵の場合には「恥ずかしながら存じ上げません」もしくは、「最近、木原誠二の妻が元夫を殺害したんじゃないかと疑われていますよね」という反応になるだろう。一方、話者は最近スクープされ話題だから話しただけではなく、その事件が「大塚」で起きたから話していたとする場合、これは「高尚な遊び」が始まっていることを意味する。聴く側は、相手が「まさかここが大塚だから木原誠二の話題を話し出した」とは思ってもいないだろうし、もしくは「お、この人大塚に到着したから木原誠二の話をし出したのか」とも気付けるのか、それにを気付くだけの知性と情報を持つことを試されてる。聴く側はその時に何も気に掛けず家に帰り「木原誠二、妻、事件」などとgoogleに入力すると、木原誠二の記事が出てきて、大塚で起きていた事件だったということがわかり赤面する。
ただ自分の好きなことだけを話すだけで人生を終えるのか、その場所と時間の中で話題を選択して話ができるのか。前者は知識だけで充分だろうが、後者は知性である。後者は、知性のない相手によってはただの自己満足に陥るのだろうが、それを実践することを心がけることは、常にフレッシュな街の空気を感じる必要があるのだ。情報をすり合わせるように常に街を練り歩き、社会との関係を保ち、決して自分の存在が自分よがりにならないということを意味するのだろう。そして自分の趣味を追求するだけではなく、その自分の趣味がいかに社会にコミットしているかを自分の身を使って計ることもできるのだ。個人的になりすぎる時代において、社会にコミットする意識を持つことは平和への第一歩である。平和は、日々「高尚な遊び」を実践することから始まる。