2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.2.23

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2024.2.23

 朝8時から日本のアート系雑誌の編集長とミーティング、雑誌の手伝いをすることになりそうだ。
夕方、オードリーさんとリリ世ちゃんがうちに来て、ディナーを作ってくれた。それにささっとガレット・デ・ロワも。今年はまともなのが食べられてなかったので、思いもしないサプライズだった。家を見たオードリーさんから「スティーブ・ジョブスの家みたいだね」と優しい言葉をいただいたが、そう言われると気分がいい。しかし、我が家は満ち足りているわけではなく、うちは足りないもので溢れているなと思った。足りないもので溢れているとは、例えば、洋服はすでにたくさんあるのにラックがないとか、本が山ほどあるのに本棚がないとかそのような状態である。ものがなくてそれで充分、家が空っぽだというのであれば満ち足りていると言えるかもしれないが、ぼくたちの家は行き場の見つかっていない日本から持ってきたもので満ち溢れている。行く場所ができるのを文句も言わずに待っているのだ。三脚をハンガーラックにしたり、本は床から積み上げているし、今はそれで満足といえば満足なのだが、洋服はハンガーラックにかけたいと思うし、本棚くらい簡単に作れるのだから作ることもできる。それ以外はいらないと言えばいらないかもしれない。あとはじっくりを腰を据えるための椅子と、ぼくたちの日々を照らし、やる気の種火を絶やさないためのライトが必要だ。
もので溢れている状況は、満ち足りている状態とは程遠いかもしれない。そのものは行き場をなくし、途方に暮れてはいないか。主観的にはそう感じるが、客観的には足りないもので溢れている状態で生活している人は、空っぽでも満ち足りている状態にある人と同じなのか。ここで書いていると、それは別に難しく考えようとすればするほどに同義語のように感じてくるが、いや決してそうではないはずだ。less is moreとかそういう概念とは別に、ものが正しいところにあるかどうか、そういうことだ。少なくても多くてもいい、もの自体が、気持ちよくそこに座っていられるかどうか、それが重要なのではないか。その考えでいくと、ものが少ない方が、行き場をなくす確率が低いので、豊かな状態になりやすいとも言える。
今日、ヘルシンキからテーブルが届いた。これで作業が捗る。同時に椅子も買ったのだが、その配送は遅れてしまい週明けの到着となった。オードリーとリリ世ちゃんが来るのでそれに間に合うかなと思っていたのだが、まあそんな思うようにはいかない。日本の配送に慣れてしまっていると、こちらでの配送に関してはあまりいい思いはしない。ただ、この前、夕方オーダーしたものが翌日のお昼に届いたが、あれはなんだったのだろうか。オランダのオンラインショップで買った掃除機は、10日経っても届かなかった挙句、間違ったものが届いた。しかし、フィンランドから買ったテーブルは1週間もしないうちに届いた。送料は27ユーロだった。ちなみにその掃除機、電話でクレームしようと思ったが電話は繋がらず、メールをするとバカンス中だという。さらに、「そのまま、届いた商品を使ってください。金額は届いた商品の方が高いので、問題はないでしょう?もし返品を希望される場合は、返送料はお客様負担でお願いします。」と、どの思考をすればその返答ができるのか理解できない返答が返ってきた。高いと言っても、たった5ユーロしか変わらないし、ぼくたちは金額ではなく、サイズとか色とか構造で決めているのだ。そもそもただクオリティの良いものを買うのであればもっとお金を出して買うことだってできるし、ただの掃除機だ、掃除なんて掃除機がなくても箒と雑巾さえあればできるんだ。勝手に掃除してくれるようなものよりも、ぼくは自分で掃除をすることの喜びをみつけているし、何より人間を怠惰にしないくらいの能力しか持たない道具が好きだ。人間と共にいることできちんと機能する道具、人間の手や足の延長になる道具、そういうものだ。だから、はっきり言ってもの選びは、金額の問題でもない。金額を5ユーロ払ったからと言って、オーダーメイドのように指示して作ってくれるわけでもないし、ぼくと隣人の生活が違うように、欲しいものは必ず違う。お金があっても、ものの姿や機能を見て結果的に安いものを選ぶ人もいる。ダイソンが全員の生活に役に立つわけがないのはダイソンを作っている人もわかっている。犬の毛が絡まりまくるノズルでは、ステラとの生活に合わない。今回結局別のところで買ったヒュンダイの掃除機は、ダイソンに比べると、少しうるさかったり、重かったりはするが、構造は至って古風な作りだ。結局、毛が絡まってイライラするか、重さかに辛い思いをするか、どちらがぼくたちの生活に合うかということでもある。例えばそういうことだ。
「そのまま、届いた商品を使ってください。金額は届いた商品の方が高いので、問題はないでしょう?」、これでオランダのデザインや生活に対する民度が低くいかにものを見る目がないか、その発言によって知ることにもなる。そんなくだらないお店の文句をオランダ全域の民度の問題にするのはよくないが、民衆の持つセンスとは一つの国やその土地の価値である。少なくともイタリア中部ではどれだけ田舎だろうかきちっとジャケットを着て、スタイルを持ってカフェをしていた。それが民度だ、彼らにはもの選びのスタイルがあり、それの趣味が合うとか合わないとか良い悪いとか人の生活の数だけ趣味があるのだからそんなことはぼくには判断できないのだ。そういう意味では、あの家電量販店の発言はオランダのものへの考え方を表すようで、ここで生活し日々考察している身として、非常に気分が良くない。彼の発言はぼくも含めたここの土地の民度なのだ。
人が来るとプレートが2枚しかないとか、スリッパもない、あれもこれもないなと思ったが、みんなで食後に気分よく過ごすにはソファくらいあるといいなと思った。ソファ嫌いでお馴染みのぼくではあるが。