2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.2.21

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2024.2.21

昨日、長く自転車を漕いだせいかものすごくお尻が痛い。午前中はいつも通り過ごし、午後はリサーチをし、煮詰まったので気分転換に家から1分のところにあるカフェBowieへ。ぼくも聖子ちゃんもコルタードを注文。ぼくは一服のつもりが、彼女は仕事の話がしたかったようで、結局仕事の話になる。ぼくは家で話をするよりもカフェで話す方が好きなのだが、きっと彼女もカフェの方がきっといいのだと思う、結局建設的な話になった。ざっくりと頭にあったことをお互いに言い合い、Cairo Apartmentの年間スケジュールがだいたい決まった。火種を絶やさぬよう自分たちでしっかりと薪をくべ続ける。時に、お互いにもつ火種に油を注ぐことだってある。夕方、毎週水曜日の野菜ボックスを取りに行き、家でセルリアックのスープを食べる。
人はよく「焦らさないで」というが、本当に他人はその人を焦らせようとしているのだろうか。人によってリズムが違うのでスピードの早い人と会うと焦るということがよく起きるので、「焦らさないで」というのは、言われた本人が持つリズムと違う外的な何かがやってきた時、特に自分自身の持つリズムよりも早い外的な何かがやってきた時に言われる言葉だろう。だから、会社などにいるとその仕事に慣れた上司が、部下の仕事が遅いと感じる、上司が進行状況などを尋ねると「あの人はいつも焦らす」と言われてしまうのだろうか。しかし、焦らそうと意地悪をしようとしている人などほとんどおらず、外部から客観的な時間軸を伝えているに過ぎない。しかし、その外部もまた主観的であるため、その客観性がどれだけ正確かはわからない。ぼくは、最近主観についてずっと考えている。世界には主観しか存在しないような気もする。話は戻り、焦りについて。おそらく、自分のリズムを持っている人が「焦らさないで」と言うと思うが、しかし実際に本人は自分のリズムをどれだけコントロールしているのだろうか。感情や気分、環境で自分のリズムは変化するし、その中でどれだけ自分のリズムを崩さずに保つことができるのだろうか。自分のリズムは、コツコツとやることでしか刻むことができない。コツコツと進む人は、自分自身の規律を持っている。それは、起きる時間であったり、どれだけ書くか、何をするか、積み上げるのか、時間や量、距離など外部に依存しながら積み上げていく。彼らは自分のリズムを保つため「焦らさないで」と言わないだろう。しかし、「焦らさないで」は「焦っている」とは同義語ではないので、そうは言えない可能性もある。焦っていなくても「焦らさないで」とその言葉を防波堤のように自分の前に立ち上がらせることはできるし、だから「焦らさないで」という言葉は、「焦っている」状態の前あるに自分のリズムを守るための予防線であり、防風林なのだ。海沿いの強風のように遠慮なく襲ってくる外部からの圧に焦ってしまってはいけない。焦ってしまってからではもう遅いのである。まあ、何が言いたいかというと、焦りというものは自分自身の中から生まれるもので、多くの場合、外的要因が重なる。締切があるとか、他人からの助言とか忠告とか、自分が圧倒的な何かを鑑賞した時とか。どれだけ自分のリズムを信じながら進められるか、自分のリズムを理解することができているか、外部からやってくる影響に左右されずに真っ直ぐにコツコツ進められるか、そもそも自分で登るべき長い階段のある建築を積み上げられるか、そしてその階段はステップを踏むのに十分な強度であるか、時々やってくる強風にも負けないだけの建物かどうか。ぼくは焦りに常に付き纏わられるような人生を過ごしているのだが、それは自分の建築を具体的に想像することができないことが大きな問題なのだろう。いや、ぼくには建築を想像することができないのではなく、それはアントニ・ガウディのサクラダ・ファミリアように図面は紛失し、残った模型と思想を地図に憶測しながら常に作り続けられているような建築の姿なのだ。こうやって書くと、それはただの自分への甘えのように感じてしまった。ぼくにも設計図、いや、部分部分完成し始めている登る建築を完成させることが必須なのである。その後、やっと登ることができるのだ。ぼくの建築は登ることができるものなのだろうか。もしかすると、すぐに解体できる川合健二の建築のようなものかもしれないし、そもそも建てることを疑ったバーナード・ルドフスキーのように建築という思想と概念しか作らないかもしれない。何を言いたいか、よくわからなくなってきたが、とにかく焦らず自分のリズムで進むことでしか新しいステップは踏めないのだ。