2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.2.19

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2024.2.19

今住んでいるデン・ハーグでは、カナル沿いのトラムのレーンに芝生が生えており、そこをステラと散歩している。多くのドッグウォーカーはみんなここを歩いていて、驚くことに飼い犬への信頼が揺らがないような方々はリードをせずにトラムレーンを歩いている。まあ、といってもこのトラムは山手線のように3分に1本来るような都会的なものではなく、電光掲示板には
「11分後、19分後」と表示されているように約10分間の間隔で走っているので、多くのドックウォーカーたちはあれこれと心配するくらいであれば歩いたほうがいい、みたいに考えてるのだろう。
ここを歩いていると、当たり前のようにボブ・ディラン「 Blowin' in the Wind」を口ずさんでいるのだが、そんな感じの場所である。もちろん、右通行なので、左側を歩く。そうすると、向かいからトラムが来ることが見えるので、もしトラムが来たら反対車線に行くことで向かいから来るトラムを簡単に避けることができる。大体トラムの運転手は、ぼくのことを、いやステラのことを常務室の窓越しに見ていて、手を振ってくれたり、手で合図してくれたりしている。それで、またぼくはなんとなく気分がよくなり、ボブディラン「 Blowin' in the Wind」を口ずさむ。自問自答し、その答えを風の中に見出すような日々である。同じタイミングで両方の車線にからきたらどうしようかと考えたことはあるが、今のところ遭遇しいていないので、おそらく問題ないのだろう。しかし、いつかは巡ってくるその時に備えてぼくはすれ違いの対処法を考えた方がいいと思っている。トラムが止まってくれるような気もするし、トラムレーンの路肩というかヘリに逃げればなんとかなる気もする。ここのところステラはアイントホーヴェンでのボーディングスクールの成果を発揮し、教養を身に纏い気持ちよさそうに歩いているし、きっとその時はうまく対処できるはずだ。そうやって人は何かに対峙することでまた一つ成長する。これに関しても、多くのドックウォーカーたちはあれこれと心配するくらいであれば歩いたほうがいい、みたいに考えてるのだろう。
今日、彼女と2人で自転車を漕いでいると、この街がとてもフラットなことに気付いた。どこまでも自転車でいけそうな気分だった。しかし、フラットなせいか、買ったばかりの自転車の車輪が歪んでいることに気付いた。時折、重くなるのでチェーンの問題かと思っていたが決してチェーンではなかった。車輪の歪みが問題だった。また、安物買いの銭失いである。「必要で何か買わないといけないことになったら、良いものを選びましょう」とぼくは心に誓っているのだが、それと同時に、物語でものを手に入れたいと思っているので、オランダに来て買い直すだろうものを安物でなんとか過ごそうと思うと本当にくだらないものに出会う。矛盾しているようだが、
ぼくの感覚ではこれは矛盾していない。物価高にさらに油を注ぐように円安が進んでいることも相まって、安物というか、はっきり言って安くはないので、「安物買いの銭失い」という言葉は正しくはないのだが、普通のものを買っても、銭失いである。日本での整い始めた生活を捨て、ぼくらはオランダに来た。少なくとも東京では聖子ちゃんが日本に帰国した祝いで買ったホテルオークラで使用しているマットレスで寝ていたし、家具だってぼくの連載が終わった時に買った椅子もあったし、クリスマスプレゼントの時もあった、結婚祝いで買ったものもあった。ちなみにぼくの今使っているLeica M6は人生初めてのボーナスで買った。ボーナスなんてもらう人生になると思っていなくて、それなら、と思ったのだ。すべてのものに自分たちの物語と照らし合わせていた。だから、家の中にあるもののほとんど自分たちが好んだものを少しずつ自分たちの物語に合わせるように揃えて使っていたし、小さいながらも自分のスピードで、自分の形を作っていた、それはある種の質だったと思う。少ないし、小さいけれど、すべての身の回りのものにストーリーがあるような、生活だった。それを捨てて、荒野に自ら飛び込んだぼくたちは、今は引っ越し数日後にあてもなく歩いている時に見つけて拾ってきた椅子とマットレス、それからワインボトルと交換で手に入れたテーブルそんなもので生活している。これからぼくたちの物語に併せて集まってくるだろうものたちを迎え入れるための空っぽのスペースと、厳しくも物語だけはある美しい日々の中で、こうやって歪みのせいであまりスピードが出ない自転車に乗っていると、生活の質を下げているように思うようなこともある。
しかし、ぼくはその自転車に乗りながらこう思った。人間は、ある程度手に入れた満足なものを捨てて、新しい旅に出ることができない生き物なのだ。ましてや、自分自身で積み上げてきたものがある場合、そしてそれにある程度、満足していると、それを捨てることはできない。ぼくらがあの小さいながらに積み上げてきた生活を捨てて、ここにいることは人間として生きる中で、何事にも執着せずに人生そのものが教えてくれる本質にふれ、受け取ることができるのかという実践なのかもしれないと思う。諸行無常を現代生活を通じて実践している。
バタバタと、ステラの部屋から起こして欲しいという音が聞こえ始めたので、今日はここまで。
そういえば、トラムレーンでの散歩で気掛かりなことがあるとすれば、拾われることのなかったうんちが山ほど落ちていることだ。それもまあ答えはシンプルだ、どれだけのうんちを踏めば、一人前の男になれるのだろうか、と答えは風に吹かれている。あれこれ心配することはない、という風に捉えておきたい。