2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.2.18

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2024.2.18

雨のなか、父からもらったmont-bellの黒いレインウェアを上下着て、急足でステラの散歩をしていた。家に帰ると、デン・ハーグ在住のコンポーザーの文さんから「ジュンさんとステラ、トラムの中から見かけましたよ」とメッセージが入っていた。すっかり忘れていたが、この街には人が住んでいる。歩くということは、誰かに見られているのだ、毎日家でパソコンに向かってああでもないこうでもないと悶々と考えていると、社会とか街の存在とかを忘れそうになる、それ以上に、ほとんど誰のことも知らないこの土地で生きていると、誰に会うとか顔を合わせるとかそんな予定もなく、社会と自分とのコミュニケーションが遮断されているように思えてならない。日本にいるときは、どうだったかと考えると、八百屋に買い物に行ったり、会社に行ったり、カフェに行ったり、何かしらのハプニングが毎日起きていて、ぼくと社会はつまらないことだけれどそんなことで繋がっていたのかもしれない。だから、週に一度の家から一歩も出ない日が心を満たすような充実感のある日に感じていたのだろうか。昼は、家でフォーを食べる。温かいものに安らびを求めているような日々である。企画書を完成させる。日曜日なので休息と自分に言い聞かせて、リズムのない生活にきちんと休みのリズムを作ろうと思ったのだが、悪い姿勢でアルテックのスツールの上で背中を壁に委ねて昼寝をしてしまったせいで、ものすごく腰が痛くなった。今、椅子に座る、ベッドで寝る、外を歩く、その三つの体勢/動きでぼくの生活が成り立っている。大体の方はそうだ、と思うかもしれない。ソファがあったり、ランニングをしたり、太極拳をしたり、スポーツをしたりしていると、それ以外の体勢も増えてくる。特に家の中の話になると、「座る」「寝る」しかない。ぼくは、ソファのことをあまり好きではないのだが、座るを拡張して、ソファに座るというのを付け加えると「椅子に座る」と「ベッドに寝転ぶ」の間に違う体勢を挟むことができる。ソファの存在価値を少しくらいは理解しているように思う。座るか、歩くか、寝る、その各動きのバランスも狂っているが、それ以外の動きを身体に加えないと、簡単に腰が痛くなってきている。東京を離れて太極拳もやめてしまったし、ランニングなんてもう遠い昔のものとなった。
夜は、かぼちゃのスープを作ったが、全くうまくいかなかった。料理をしていて、美味しくできないということは滅多にないのだが、何が起きたのかは知らないが、色々な些細なことが少しずつ狂ってしまい、大きく崩壊したような味だった。夜、コーエン兄弟の『Burn after reading』を観た。ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、ブラッドピット、ジョン・マルコビッチ。この映画も見方によっては、また些細ものごとの噛み合わせが悪い方向へ向かい、少しずつ狂い始め大変なことを巻き起こすというものだった。何かうまくいかないときには大体において心のバランスとか動きをコントルールできないときなので、他のことも全てうまくいかないのがぼくにはよくあるのだが、今日の午後はそういう日だった。