2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.2.17

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2024.2.17

数日前から聖子ちゃんが体調を崩している。毎朝、ぼくは起きたらすぐにリビングに行き、ケトルに水を入れ、お湯を沸かし、パソコンの電源を入れ、トイレに行ってからリビングにあるトラムで持って帰ってこようとした長いダイニングテーブルで文章を書き始める。普段は、書き終えたらステラを起こしにいくのだが、今日はぼくが文章を書いている間に聖子ちゃんが起きてきてステラを起こしに行ってくれた。奥のステラのいる部屋から「うわーっ、どうしたの、ステラちゃん!」と聖子ちゃんの悲鳴にも近い叫び声が聞こえた。その声を気にしたのか気にしていないのか、ステラは毎朝と同じようにいつも通りリビングルームに走ってきた。ぼくは彼女の大きな声に驚いたのだが、どうしたのかと聞くと、ステラの右目が大きく腫れ上がり、結膜炎のようになっているというのだ。ステラの目には緑色の目やにがべったりと数日前にぼくが必死で削り落とした椅子の糊のようにこびり付き、正面から顔を見てられないほどに赤く腫れ上がっている。彼女は少々眩しそうに目をぱちぱちしているが、痛くて身体が動かないということはなく、それ以上に今日も新しい日を迎えたことに喜びを感じているようだった。ステラの体調を危惧した聖子ちゃんは急いで、ステラと散歩に出た。ぼくは、家の近くの病院を調べ、緊急病院以外どこもやっていないので、仕方なく母に連絡し、通っていた田園調布のかしま動物病院に間接的に相談した。電話してくれたようであまり焦ることもないようなので、自然治癒でもいいのではないかというような回答だった。安心したぼくは文章を書き続けた。聖子ちゃんが散歩から帰ってきた、一緒に歩いてステラが元気なことに気づいたのか、ぼくが自然治癒でも大丈夫ということを伝えたからか、安心したような表情をしていた。ステラの体調不良、それによって聖子ちゃんが少し元気になってきた気がする。ぼくもその経験があるのでよくわかるが、人間ってこうやって他者から影響を受けて自分の体調を調整できるくらいに強い生き物なのだなと思った。
数日前、MUBIでアッバス・キアロスタミ監督『Like Someone in Love』を観た。主演は、高梨臨、奥野匡、加瀬亮ものすごく面白い映画だったので、皆様もぜひ観てください。若者は、学歴社会や大学の教育制度を否定するかのように中卒で自分なりに自分の生き方で生きようと試みる、全てを手に入れたような熟年男性は、全てを手に入れたのにどこか満たされることのない虚無感を持って生きている。若い女性は、生きる価値を問うかのように現実のねじれにそのまま身を埋め込み虚構のような日々を生きている。人々の思い込みとか、理解できていないのに理解しているつもりになって時だけが進んでいくことの恐怖などを強く感じるような映画だった。ぼくの前作『To Find The Right Chair』から継続しているテーマとして「目の前の風景に自分の記憶とか気持ちを投影しているのではないか」というのがあるのだが、それともとても親和性のある、一般的に親和性と言われるものとは違うが、そのテーマを前に進めてくれるような、刺激的な映画であった。
見終わった後から今日まで、人と人の間に起きる現実はどのように現実として立ち上がるのか、もし人々がその事実を共有しないときにそこにある現実というのは現実となり得るのか、ということについて深く考えさせられ頭の中をぐるぐると回っている。
例えば、ロマンチックなレストランでディナーをしながら幸せな時間を共有している男女がいる。テーブルには、トスカーナ産のキャンティクラシコが一本、レストラン中の光を輝かせているグラスが二つ。一つには何も入っておらず、もう一つには赤ワインが入っている。スパークリングウォーターのボトルもキャンティクラシコの隣に並ぶ。二人の会話が盛り上がっている。女性の話の山場にさしかかり、その細長い腕や柔らかな表情を自由に使い話している。そのとき、彼女は身体につい力が入り、大きな音の出るおならをした。しかし、男性は何事もなかったかのように表情変えず彼女の細長い腕や柔らかな表情を楽しみながら話を聞き続け、女性も同様に表情を曇らせることもなく、「さて、ムカデのどことどこの足の間だったのでしょうか」と面白く話をおとした。男性は大笑いをした。女性は残っていた赤ワインを飲み干し、男性は、彼女の空いたグラスにワインを注ぎ、自分のグラスにスパークリングウォーターを注いだ。
男性は女性がおならをしたことには明らかに気付いている。なぜならそのとき、確かに大きな音が出たからだ。その音は聞き逃すことができないほど爽快で力みのない音だったのだ。さらに、隣の客の視線もその時に感じた。だけど、女性は何もいわないし表情から読み取ることもできないので、その男性も尋ねるような野暮なことはしない。
一方、女性。力が入って大きめのおならをしてしまったと思っている、しかしこんなまだ知り合って間もないデートなのに、ミステリアスな男性を前におならをしたと言いにくい、ましてやもう既にタイミングを失っている、いまさらさっき話してる時に力が入っておならが出てしまったと言うわけにはいかない。それがシリアスで捻れていくような話だったら話をブレイクするのに最高だったかもしれない、それが長年付き合っているカップルの喧嘩中に起きていれば最高の小道具として機能しただろう、しかし出会って間もない男女のデートの、そしてさらに女の持つ十八番の知性のある笑い話の山場だったのだ。その後、彼はティラミスを頼み、男はパンナコッタとエスプレッソを飲んだ。おならの話は一切せずにレストランを出て、そのまま2人は一夜を共にした。
この場合、おならは現実だったのだろうか。男と女の間にあったおならは本当に現実だったのだろうか。男は家に帰り、まだこう考えるだろう「爽快で力みのないあのおならに似た音は、椅子の脚がヘリンボーンの床と擦れたときになった音だったのではないだろうか」と。女性は願いを込めたようにこう思うだろう「彼の表情は全く変わらなかったし、金曜日の賑やかなレストランの中で、彼にはあの音は聞こえていなかったのだろうか、いや自分が感じた自分自身のおなら、あれは自分の錯覚だったのではないか、確かに匂いなどは全くなかったのよ」と。このまま2人はお互いにあの日のおならに対して何をいうこともないだろう、そして隣り合った視線を向けた客にはもう二度と会うことはない。もし会ったとしてもそのことを話すことにはならないだろう。あの金曜日のロマンチックなレストランでの爽快で力みのないおなら、あのおならは本当に現実のものだったのだろうか。現実とは、どのように現実として立ち上がってくるものなのだろうか。目の前に起きていることを認識しないことは、現実を見ないということになるのだろうか。ぼくはここ数日これについてずっと考えている。みなさん、あのおならは現実だったか、現実でなかったのか。そそしてその理由をメッセージください。