2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.29

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2024.1.29

イタリア滞在中の最終地ピサのカフェで聖子ちゃんが物思いにふけた顔をしながら「ハネムーンも終わるね」とボソッと言った。その時、ぼくには返す言葉が見つからなかった。いろんな言い訳をしてイタリアに来た、リサーチと称して、仕事と称して、オランダの生活から逃げるように太陽を求めて、ただの旅行ではない、ぼくたちはイタリアでミッションがあるのだ、そんな言い訳をしていた自分が恥ずかしくなった。お互いに「ハネムーン」という言葉を一言も発しなかったが、結婚して2年が経ち、旅行に行けるような環境が整い、ぼくたちは実際のところなけなしのお金を握りしめて心のどこかにひっそりと抱いていたハネムーンに来たのだ。サンジミニャーノで「君たちはハネムーンで来たの?」と聞かれたが、ぼくは「Well, yes, it’s kind of」と答えたが、突然そう答えたことが恥ずかしくなってしまった。その時もイタリア人には、「Kind of?」と、まあそんなかんじかな?という言葉がイタリアには存在しないというような反応をされたのだが、あのとき彼女の口から出た「ハネムーンも終わるね」という言葉を聞き、自分の発言の不甲斐なさに今更恥ずかしくなっているのだ。結婚した時に、「ハネムーンにいくならイタリアだね」という話をしていた。いつになったら行けるのかなとか思っていたけれど、この旅はぼくたちのハネムーンだったのだ。イタリアはどこもかしこも風光明媚、そんな何も本質を捕まえることができないような言い方を毛嫌いするように旅をして言葉を紡ごうと思っていたが、ぼくは何かに言い訳をしながら、イタリアでの日々をハネムーンとは言わなかった。自分自身をその気にさえさせなかった。その気になることが悪だったかのように。それでも、ぼくたちは時に激安宿に滞在していても、レストランに行けずにフォカッチャを食べていても、ホテルでテレビを見ながらベッドの上でモルタデッラを食べていても、カフェでピッコロサイズのティラミスをシェアしていても、それがハネムーンであれば何があろうとハネムーンなのである。はっきり言って、これはハネムーンだったのだ。リサーチも写真も仕事も全てはハネムーンを隠すかのように煙を巻いていただけだったのだ。心の底からこれはハネムーンだったのだと今なら言える。
今日朝現像してきた写真も、ぼくのLeica M6の調子が悪く、あまりうまく撮れていなかった。露出が足りずに、半分黒くなっていたり、全く写っていなかったり、中途半端な仕上がりのものがとても多かった。これがぼくのイタリア旅行を表すようでとても辛い気持ちになった。ハネムーンだと割り切っていたら写真は輪郭を持ったミケランジェロの彫刻のようにはっきりとした姿を見せていたのだろう。それも、ぼくたちのハネムーンなのだ。完全に写っている写真はものすごく良い仕上がりのものばかりで、撮った自分自身でも少し目を疑うほどなのだ。それがハネムーンである。
ちなみに、写真現像、デン・ハーグのセントラルに位置するPoto Americaineでお願いすると、11時に依頼をしスキャンまで仕上がったのが15時半、スピードも写真の質も素晴らしい。ということでたくさん仕事を受けられますので、皆様急ぎの要件でもお待ちしています。