2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.28

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2024.1.28

アムステルダムに滞在していた頃、朝の散歩中にVondel Parkでこんなことがあった。
ステラのうんちをする姿を見て、「散々うんちをして、ちょうどうんち袋を捨てたばっかりだったのに、またうんちか。これからトレーニングの散歩するつもりなのに」と思ってしまう。寒いので、手袋を外してポケットから袋を出すのは嫌だなと瞬時に思い、チラッと周りを見た。悪いことをする子供のようなこの行動に自分自身で「ゲッ」と思ってしまったが、誰もいないことと森のような雰囲気の公園で、落ち葉がたくさん落ちているのをいいことに自分の中のまあいいやとすぐ思う性格の側面がそのうんちを見て見ぬふりをして足を一歩進めた。さらに反対の足ももう一歩目が進む。いや、新しい袋はポッケの中に入っている、だけどこんな落ち葉だらけのところうんちなら拾わなくてもいいんじゃないか、こんな道誰も通りやしないし、と思っている間にさらにもう一歩。これでもう三歩目。四歩目、五歩目とどんどん足が前に進む。なんとなくホテルから出てくる芸能人のように、背中も丸くなり、背中にうんちの「ほっていかないで」という目線を感じてた。多分、十二歩目が出たくらいの時に、やっぱり拾おうと思い、後ろを振り返った。タイミングが悪く、品のいい素敵なおばさまと健康的に跳ねるように歩いている大きめのプードルが向こうから歩いて来た。こんなに寒いのに背筋がピンと伸びている。こちらは元々の猫背に寒さで丸めた背中にさらに罪悪感の重さが重なり、手塚治虫の漫画に出てくる親父のような姿勢になっている。拾おうと振り返って、おそらくこのままお互いに同じ調子で歩けば、ちょうどぼくが先にうんちのところに到着し、うんちの前で立ち止まる事になるのだろう。そして、誰のか知らないうんちを拾おうとしている髪の毛の伸びっぱなしのさえないのアジア人青年と上品な素敵なおばさまが「Hello!」と挨拶をする事になる。きっとその上品な素敵なおばさまは、「あら、日本人の男性はなんて綺麗好きなのかしら、人のうんちを拾って犬の散歩をするなんて」と思ってくれたかもしれない。しかし、そのうんちの本性は、ぼくが自分の怠惰な性格から拾わなかった、ほっていかれた悲しみに満ちたうんちだったのだ。もちろん、その先は、書かなくてもわかるだろう。日本では、鳥のフンが洋服に着いた時に、「運がついたね、ラッキーやん」ということもあるが、今日のぼくはその逆に運を拾わなかったのだ。捨てたとも言えるだろう。散歩から帰っても、今日は「運を拾わなかった」ということと、そもそもうんちを公園に放置してきてしまったということを一日中考え、運を拾わない人間に何もいいことは舞い込んでこない、このせいで不幸になったらどうしようかと考えだしてしまった。割と気に入っている自分の線の深いしっかりとした手相を見たらどことなくいつもより薄いように感じるし、その後聖子ちゃんと街を散歩していても、なんとなく街の建物も、すれ違う人たちも、曇り空も、世界がぼくを仲間外れにしているように感じてしまう。運がなくなってきた気がするので、耐えられなくなり、挙げ句の果てには散歩の途中で、「言ってなかったこと懺悔するわ。聞きたい?」と言った。
「え?怖いことだったらいいわ」と聖子ちゃん。
「怖くないけど、今日あまり人に言えないことをしてしまったんやけど、言っていい?」と朝の散歩の出来事を聖子ちゃんに打ち明けてしまう。言わないことで、自分の心の中に留めておくのが少し辛くなってしまったからだ。
この話を話すと、聖子ちゃんはそんなくだらないことをわざわざもったいぶって話すなという顔していつも通り呆れていたが、「運にも二種類あって、幸運と悪運があるから、今日の朝のそれは悪運だったんじゃない、だから拾わなくってよかったよ」と言ってまだ違う話題を始めた。考え方が違えばものの捉え方も全く違うなと思った。