2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.1.26

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2024.1.26

朝11時のGalileo Galilei Airport発の飛行機に搭乗しオランダへ帰る。ついにこの旅も終わりを迎える。段ボールに10kg分のパスタやオリーブオイルを詰めてチェックインしようとするも、いかにも今日は金をむしり取ってやろうと言わんばかりに頭にねじりハチマキを巻いた(ぼくにはそう見えた!)イタリア人のふくよかな体型をした金髪ボブヘアのマネージャがどんと立ちはだかり、「えっと?その箱は何でしょうか?何が入っていますか?箱はカーゴ扱いだから預かれないですよ、預かれるのはバッグだけです」といやらしくわざと驚いた表情を浮かべながら言ってきた。ぼくたちはもちろん追加で10kgを支払っているので「ああ、そうですか」と言うわけにもいかず「中身はパスタとかオリーブオイルとかですよ、荷物も追加でつけていますよ」と何も問題ないよと引き下がらない。どこにも箱はダメと書いてないのだから、引き下がる必要もないのだ。それにぴったり10kgなのだ。ふくよかな体型をした金髪ボブヘアのマネージャも「預かれるものはスーツケースもしくはバッグのみで、中身は洋服しか受け取れないです、空港の外の郵便局に行くか、スペシャルアイテムとして超過料金を払って預けるしかないわ」といやらしい表情にさらに金をむしりとるチャンスを見つけたという目をしながら言ってきた。はっきり言って郵便局に行くのも超過料金を払うのもどちらも嫌なのだ。どちらもできない。いや、ぼくたちは何も間違ってないのだから払う必要がないのだ。色々と丁寧に説明し確認するように食い下がるも、あちらも「(今夜のリストランテでの食事代がかかっているのよ、引き下がれないわ)」と言わんばかりにねじりハチマキを締め直してギラっとした目つきで「チェックインまで時間もないのよ、こちらにサインするしかないわ(このお金は私たちのディナーの足しになるのよ)」と。マネージャの言う通り、時間はなかった。乗り込むしか選択肢もないぼくたちは、彼女たちの今夜のリストランテでの芳醇な八三年のコルティブオーノのボトル一本分ほどの金額を支払い、「次回の参考にしますので、もう一度確認します、箱はダメ、預けるバッグの中身は洋服だけ、ですね?(もうRyanairには乗りませんから!)」とねじりハチマキマネージャを「もうRyanairには乗りませんよ」という目で睨みつけてチェックインをした。さらにサービスカウンターを離れる際にも背中でもうRyanairには乗りませんよ」と語り、ぶりぶりと歩いた。なんとも情けないのだが、それ以外に選択肢がなかったのだ。
アイントホーフェンから車でユトレヒトに行き、その後、アムステルダムに荷物のピックアップへ。荷物を預かってくれていた窪江さんと再会、なんとなく同級生のような感覚もあり、お兄ちゃんっぽい雰囲気もあり、この人がいなかったらイタリアへの旅行もできなかった。かなり助けられた。ちょうど船便も届いたということだったので、車に荷物が載りきらず、往復する。デン・ハーグへ行き、入居し、リエズベスさんから鍵を受け取り、再度アムステルダムへ車を走らせる。イタリアの風景とこのオランダの風景には似ても似つかないところがあり、光の強さも違う。オランダの光は、デジタルカメラの持つ色のように鋭く、イタリアが持っていた光はアナログカメラの色のように日曜の昼下がりに室内から青空を眺めるような、もしくは夏のヴァカンス中に抱える人生への不安のようなモヤモヤとした柔らかさを持っていた。イタリアは縦に長いので地域によってもきっと光も空気も違うのだろう。少なくともトスカーナが持っていたものはそんな感じだった。
結局23時前に家に帰り、シャワーを浴びる。まだ布団がないので、持っている限りの温かい服を床に敷き、ダウンを着て、持ってきていた毛布と掛け布団にくるまって眠る。オランダの運転はイタリア、トスカーナやフィレンツェに比べると断然楽である。道は、舗装され、白線は明確に引かれている。トスカーナでは、Y字路でどちら方向にも「FIRENZE」と書かれていた。オランダではそんなことはない。オランダでは、白線は明確にひかれ、それをなぞるように走るだけである。困るところもほとんどない。道路標識も「6h-18h100kg /18h-6h 130km」と言ったぐあいにとても具体的なのだ。
しかし、一方でイタリアではまだ人々が運転を楽しんでいるので、こちらがのらりくらりと風景を楽しみながら走っているとクラクションを鳴らし、派手に勢いよく抜かしていく。だから白線があるなしではなく人々が選んで車を走らせるのだ。オランダは「ドライブを楽しむ車の運転」ではなく「移動手段としての車の運転」の価値に重きが置かれているような気がした。たとえば、イタリアでは「電車やバスなどの交通手段が遅れるので注意するように」と耳にタコができるほどに聞いていたが、はっきり言って一度も遅れたことはなかったので拍子抜けしてしまった。オランダでは、トラムが一本こないとか、電車が突然運休になりました、とかそういうことは普通に起きていたので、かなり不便な思いをしていたのだ。オランダは、「エンバイロメントに配慮し、電車をどう効率よく動かし、いかに人がそれに効率よく乗るか」イタリア、トスカーナは、「人のための電車」がまだ存在しているように思えた。そして、誰も乗っていないのに時刻表にそれがあるから動くのだと、環境や人のためでもなく「ルールのために電車を動かす」日本。こういう風に考えると、「本来、人のためにあったルールが気付けば人よりも偉くなってしまっている」日本を離れ、「エンバイロメントに配慮した合理性のためなら、人はそれに合わせるべき」というどうもしっくりこない考え方を持ち合わせるオランダにこれから住むことに少々嫌気が差すのだが、それらを好き嫌いで判断するのではなく、生活を日々研究し考察する身分としては違いを愛でていくことが大事なのである。嫌いも好きも心の動きは同じなのである。それらを何も考えさせない状況になってしまうことが一番危険でもある。